書きかけAU
ドッペルゲンガー(その昔益関がメインだった頃、お題ページがあってその一つ)
04 ドッペルゲンガー 市
右手で作った拳のその粗末な扉を力任せに叩いていた。暫く扉の前で佇んだがそれでも内部からの反応は無い。通りを行く老婆が怪訝な顔で此方を見たので曖昧に笑いまた扉を叩いた。
そして腕を上げることが面倒になり腕を組み、靴底で蹴ってみたが内部からの反応はなし。
溜まらず扉を押すと甚も簡単に開いた。
「無用心だなぁ」
十二畳ほどの長細い部屋である。
真正面には窓があって、卓子とそれを挟んで二客の椅子が背を窓下の壁に向け置かれている。薄汚れた漆喰壁だ。卓子上にはアルコホルが其処に辛うじて残る程の洋燈と幾枚もの原稿用紙があった。
書き損じた紙は左に束ねられ、文字の埋まったものは右側に文鎮を置かれていた。枚数をみれば五枚程度で、昨夜の暑さにどうやら筆が進まなかったことを報せていた。
窓外では運河の水が光を反射させている。
眩しい。
麻の白い中折れ帽子を卓子に置き、内輪を手に取り仰ぎ出すと、部屋の片隅の小部屋を見た。
小部屋と言っても好いはずだ。
壁に押し付けられ四方を柱と帳が飾っている。尤も此の暑さに帳などは引かれていず、堂々とその部屋の主が寝乱れた姿を眺めやることができる。
その小部屋は此の地の伝統的な床の様式で、西洋風に言うならば『ベッド』である。
牀とも記し、つまりは寝台だ。
「寝穢い」
丸くなって眠る様は宛ら栗鼠が何かのようなのだが、寝着の乱れようは酷かった。下履きと肩にその長着そ引っ掛かっているだけのようにも見える。
「関口さん、いい加減に起きて下さいよ」
前髪を揺らして寝台の上で丸まる関口を覗き込むと鼻を摘んだ。
冬であれば此処に白い綿入りの敷布と枕が贅を競うのだろうが、現在は敷布を敷いたばかりである。
瞼が鈍々と押し開けられた。
暑さに熟み疲れた眼が其処にあった。
「ますだくん」
鼻声で闖入者の名を呼んだ。
「陽も疾うに上っていますよ。起きて下さいよ」
眼を手の甲で擦りつつ、関口は緩慢に上肢を起こした。
益田が手を離すと関口は胡坐を掻いて肩を小さく回した。
「なんで君、此処にいるんだ」
「昨日約束したでしょう」
「慥かにしたけど…」
「鍵が開いていたんですよ。無用心だなぁ、全く。早く顔を洗って着替えて下さい」
「んー」
「寝惚けてますね」
呆れた声と共に腕が伸びてきて関口の頬を抓った。
「痛いよ、鳥渡っ。益田くん」
「髭も当たったほうが好いな。僕は其処の茶舘に居ますから、早くして下さいね」
卓子にある帽子に手を伸ばし、頭に載せると益田は眼前で手を振り颯々と出て行く。
それを眺めやり、再び卓子を見た。
五枚しか進まなかった原稿。これではいつまで経っても日本に送れない。
関口は溜息を吐いた。
茶舘は通りの角に有り、運河へ張り出した広い露台がある。露台の脇には大きな柳が生けられその袂は一階二階共に舗内で一番人気の席だった。その席にいる益田を見つけ近付くと、茶海から背の高い聞香杯に注ぐ処だった。黒泥の美しい茶器をそっと益田は茶盤へ置いた。
「君は、酷く面倒な方法で能く飲むね」
「どうぞ」
そう云って益田は着席したばかりの関口の鼻へ開けた聞香杯を押し付けた。
「如何です?」
「…甘い感じ…かな?」
関口は首を捻った。味覚音痴だとは日本に居る時に散々友人の古書肆に揶揄されたのだ。舗内の卓子は黒檀の框には葉を着けた木々が装飾されていて、それを関口は指の腹で撫上げ益田の相向かいに着席した。
「否僕も能く解らないんですけど」
けけ、と益田は笑った。
「折角だから習得しようと思いましてね」
「熱心だね」
「じゃないとやってられませんから。うちの探偵未だ見つからないし」
益田の物言いに関口は顔を顰めた。
「榎木津、居なくなって五日だろう?」
「四日ですよ」
益田は丁寧に訂正した。
「然るべき所に連絡を入れるべきじゃないかなぁ?」
正方形の形をした卓子に両肘着き顎を乗せて関口は云った。
「然るべき処って何処です?」
「あー…領事館とか?」
質問に質問で返し剰え思案顔を傾いだ。
「話が大きくなりますよ。第一、あの人ですから」
「そうなんだよなぁ。彼奴なんだよね」
溜息を吐いて小さな碗に慎ましやかに入った茶を二人は同時に呷った。ことが大きくなって後大抵莫迦を見るのは、当人を心配して騒いだ周囲なのだ。あれ程心配のし甲斐が無い人間は居ない。
「関口さん、」
益田が注視していることは解ったが関口は運河に眼を向けたまま一顧だにしない。そもそも人と目線を合わせることは苦手なのだ。
「ん?」
「いい加減に髭を剃ったでしょう?」
人を莫迦にしたような口調は雇い主譲りか、本人の性質か。
「残っているかい?」
「少し」
益田は片目を軽く眇め人差し指と親指で空気を掴んで見せた。少しと言う仕草である。
「それは兎も角、何か食べないかい?」
顎を撫でながら訊いた。
「お腹空いているんですか」
「昨日の昼から食べてないんだよ」
益田は関口の腹の辺りを見るが、薄くなった腹部は衣服に隠されている。
「だって彼処公禺でしょうに」
公禺とは賄い付きの下宿を言う。
「ああ、うん。まぁ…なんと云うか」
「何ですか。その曖昧な返事は」
察したのか意地の悪い笑みを浮かべた。
「まあ…有態に言えば賄いが払えなくてね」
「矢っ張り。有態も何も他に云い様が無いですよね。関口さん、颯々と原稿完成させて原稿料貰えば好いじゃないですか。綺譚舎さんは大手出版社なんですから紙魚っ垂れたこと云わないでしょうし」
「使用人付きの借家暮らしが能く云うよ。君は労を知らな過ぎだ。それが出来てりゃこんなに辛くないよ」
閑を持余していた薔薇十字探偵社は関口に着いて此の地まで出張したのだった。そして東京に居る時に知り合ったらしい仏蘭西人の知人から家を借りていたのだった。勿論探偵社の社員たる益田も探偵の友人である関口もその仏蘭西人など知らないのだが。
プラタナスの並木の美しい仏蘭西租界に家はある。
「まあその労を好んで仕事にしたのは関口さんですしね。此処行きを承諾したのも関口さんですから。あの探偵に平身低頭、頭下げれば喜んで迎え入れますよ」
「君と彼奴と僕?」
で棲むと云うのか。
「ええ。はしゃぎ回る光景が眼に浮かびます」
「─────御免蒙るよ」
「給仕付きなのに?」
「君、今其処に一人なんだろ?榎木津が戻っていないなら。もしかして一人そんな待遇にいるのかい?」
「疑問形で畳み掛けないで下さいよ。否、まあ僕一人なんで金払えないしやっぱり恐れ多いので、実際の給仕にはお引取り下さっていますがね」
益田も赤貧は身に染み付いているらしい。
「じゃあどういう意味だい?」
益田は口を弓張り形に作って自分の鼻を右手の人差し指で示した。
若い女給が鳳梨酥を二人の卓子へ置いた。パイナップルの饅頭である。益田が女給へ些少の礼を渡す。
「関口さんは─────結構彼方のことに詳しいんですよね、」
益田の声調が少し改まって関口を呼んだ。
「彼方?」
鳳梨酥を頬張り口を動かしながら復唱した。けれども何を言っているのか解る発音ではない。
「ドッペルゲンガって知ってますか?」
咀嚼しての見下すと関口は親指で口を拭った。
「『あっち』ってそれのことか」
「ええ、まあ」
「…僕も一般的なことしか知らないけれど…。此の言葉自体は独逸語でドッペルって言うのは英語のダブルだな。学生の時に落第をドッペるとか云ったし」
「はあ、学生の俗語ってやつですね」
「うん。ドッペルゲンガって云うのは『二重に出歩く者』と云う意味らしい。日本では二重身とか、古くは離魂病とか云った」
「二重ですか」
「そう。鏡も無いのに、自分自身を其処に見ることを云うんだ。否、第三者が見ることもあるんだけどね。そのもう一人の自分に会ってしまうと一年以内に死んでしまう─────と言う民間伝承もある」
「そんな怖い話なんですか」
「らしいよ。有名処ではゲーテとか芥川とかが見ているらしい」
益田は腕を組み少しだけ思案めいて見せた。長い前髪が風に戦いだ。関口は益田のそうした光景を見ることが好きだった。
「益田くん?」
何故思案気にするのか訝しんで声を低めた。
「否、僕も能く解らないんですけどね。当の榎木津さんなんですが、今の処掴めている足取りの最後の目撃者が云うには、榎木津さんは自分を追っていった、と─────」
関口と益田は顔を強張らせたまま、互いを凝視しあった。
窓の下枠を飾る美しい格子の下部を運河が流れている。蒼穹には遥か彼方に白い雲が薄くある許りでその中天には日が燦爛と坐す。暗い色をした水面を舗中の天井まで揺揺と陽光は反射させていた。
運河を眺め遣る関口の顔も矢張り照り輝いている。
益田はその関口を見詰めた。
運河を行く荷を運ぶ舟。中には遊興の舟もあるが、何れも笠を被った人々が櫂を水中に尽き立てながら緩慢に進んで擦れ違って行く。運河の上流側、舗の露台馬手には上弦の弧を描いた橋が掛かって対岸とを繋いでいる。その石造りの橋脚を舟が潜って往った。
「…矢っ張り…領事館へ往った方が好いですかね?」
何処か不安そうな口調で益田が聞き、関口は煙草を取り出した。日本から持ってきたものである。
益田が迷うのはその渦中の人間が他ならぬ榎木津であるからだ。もしこれが関口であったならば兎にも角にも息咳き入って領事館に駆け込んでいた筈である。
「まあ、うんそうだね」
煙草を卓子に置いたまま関口は肘を着いた。
「その前に少し整理しよう」
「整理ってそんな悠長な」
「もう充分に悠長だよ。それに榎さんは簡単にはやられないよ」
しぶといからね、そう云って関口は少し笑った。