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朧月夜

 夜に待ち合わせをすることは殆ど日常だ。妻の在る身で他の男に恋をしたのだから、隠れて逢うことは常態で、後ろめたさは拭い得ない。けれど逢うことを辞められないのだから、なんと卑しい身のことか。
 

 夜半に念仏橋だと云う話だったのにそれより半刻早く榎木津が仕事部屋の窓を叩いた。
喜色が満ちる。
「出られるか、」
頷かないことなど無いのに、榎木津はいつも問う。その度に関口は身の不実を問われている心持ちになる。否、きっと榎木津にそんな思惑など在りはしないだろう。
彼はいつも明朗だ。
胡乱なのは関口の方なのだから。
 

窓を開け置いて、関口は土を踏む。
「跣だよ、」
と言えば、宛ら王侯諸侯のように拭ってあげるよ、と返された。
訪った男は薄手の外套を身に纏っていた。対して、屋内の男は襯衣に薄手のセーター一枚だ。
 

月齢は満に近い。だのに叢雲が掛っている。仄朦りとした月光が殆ど街燈も無い道行を霞めて照らした。
 

榎木津が関口の手を引いた。
「わっ」
躰が傾いだ。
辛うじて体勢は崩れず身を躍らせた先の何処までも続く黄色の絨毯を見た。
「どーだ!」
「榎さんっ」
「おひたしにしたいだろう」
榎木津は腰辺りまでを菜の花に浸しその頭を月に預けていた。
朧に猶予う月を光背として立つ榎木津は笑んでいた。
菩薩のような曖昧さではなく、苛烈なまでの明朗さで。
手を差し伸ばされる。
その手を取りながら「綺麗ですね」とそんな酷く陳腐なことを言い出そうとした時には榎木津の両腕が関口を攫いその儘背から菜の花の中へ倒れこむ処だった。
 

土の匂いと茎が背に押し潰される青い匂い。そして互いの精をその匂いに交じり合わせた。
 


春になってしまった…駄目。駄目。 

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