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流浪の民

 ビルボが木枝の爆ぜる音にそっと瞼を持ち上げれば、髪と髭の豊かな歳を重ねたそれでも若々しいドワーフの王子の姿があった。
思考に耽っているのか焔を凝乎っと見詰めていた。普段青く美しい彼の眸子は緋の色を受けて矢庭明るい紫色に見えた。一番火の傍に在った、ビルボ・バギンズの微かな身動ぎにトーリン・オーケンシールドの少し柔和な目線が目敏く向けられた。
きっと彼の思考は先般甚も高い岩場から見渡したそのエレボールに、懐郷に及んでいたのだ。日頃の特に厳しい彼の面に接している者からすれば、見てはならなかったと禁忌を覗いたような心持ちになるほどだった。
再び瞼を閉じようとしたのだけれど、トーリンの長い指が僅かに手招きをした。
周囲で就眠する仲間達に配慮してにじり寄るように火を間にトーリンに向かい合った。
「僕が眼を覚ますときにいつも貴方は起きている」
「…今日は私が夜の番だった」
「そうじゃなくても貴方は殆ど眠っていないでしょう?」
僅かな物音にもトーリンは起きる。瞼を持ち上げて周囲を覚る。
「躰は休めている、」
「うん。いつもの貴方をみていればそれが少しとして禍になっていないのは良く解るけど」
とそこでビルボは口を噤んだ。
嗚呼、ともう少しで声を漏らしてしまいそうだった。
恐らくは、このトーリン・オーケンシールドと言う男はエレボールをさってから、否モリアで数多の同胞の命を落としてからその殆どを眠れていないのではないだろうか。
彼の安眠・安住の場所はエレボールの他にないのだ。
樫の盾の名を冠すことは、誇るのではなく己の戒めなのだろう。決して故郷と同胞を忘れない為の。その谷よりも深い悔いと山よりも高き恨みを。
「バギンズ殿も存外眠りが浅いだろう、人のことは言えまい」
「僕の眠りが浅いのは……」
背後で眠る幾体ものドワーフに眼を向ける。
「好い加減慣れましたけど、」
暗に言葉を濁したが、トーリンは頷いた。
「私も同じようなものだ」
彼の同意にビルボが少し笑うとトーリンの面が僅かに白く照った。
「寒いのだと思った」
「え、」
トーリンの目の前には、膝を抱えたビルボの白い臑が剥き出しで曝されていた。臑巾もなく長い革靴も履かないホビットにトーリンは気遣って火の傍へ寄せてくれたのだと漸うとビルボは気付いた。
「えっと僕らはとっても跫が強いんですよ。ドワーフやエルフみたいに靴が要らない」
「それは承知しているが、流石にそれでは」
「大丈夫。全然問題無いのです」
ビルボは自分の臑から脹脛を触って見せた。
火へ眼をやるトーリンをビルボは凝視した。
その焔の中に嘗てのドワーフの国があるのではないかと錯覚するほどに火をみつめるトーリンの目は優しいものだった。
「ねえ、トーリン」
呼びかけると、トーリンの目線がゆっくりと動いた。
明々と彼の相貌が照らし出されていた。
「僕にも夢があるんですよ」
ビルボは笑って見せた。
「否、時々夢想してみるんです」
顔が熱い、とビルボは思った。
「僕は家にいてふかふかの寝台と温かな暖炉、手入れの行き届いた庭と、沢山の本を積み上げている。そして馬を一頭所有しているんだ。そして不図思い立って、馬に跨る。そして貴方と十二人の仲間がいるあの山の下の王国へトコトコ出掛けて行くんです」
本当に笑って見せると、今度は焔が本当に大きく膨らみトーリンの面は一瞬真っ白に照った。
残酷なことを言っているだろうか。
ビルボは心配になったが、トーリンは真剣に此方をみて僅かに眼を伏せて
「その時には歓迎する、」
と云った。
何処か面映がっているように見えた。
「……もう寝るね。僕は睡眠がたっぷりじゃないと動けないからさ」
少し離れようとすると、これを、と声を掛けられる。
振り返ると立ち上がってトーリンが自分の外套を差し出していた。
「え、いや、大丈夫だよ。本当に。上着は持っているし、本当に僕らは跫が強いんだよ。それより貴方が寒くなる!」
「私は火の傍にいるし、寒さには強い」
「でも」
「私が落ち着かない」
火を巡って、トーリンはビルボの両腕に自分の毛皮のついた外套を下ろした。
彼の温もりがそこにあった。
「……ありがとう、」
「早く寝て明日に備えたほうがいい」
「うん」
ビルボは丸まるようにしてすっぽりとその外套に収まるようにした。
トーリンの匂いがする。
眼を閉じる。
この十三人は流浪の民だ。夢に楽土を求めようにもきっと其処には故郷を見る他にないのだ。少しだけビルボの眦に涙が浮かんだ。
夢も見なかった。ただ黒洞々と暗い中でビルボは少し泣いた。十三人の友を思って。

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