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蛞蝓

(千燈会の夜、前夜の話。)

 弔いの読経が遠くに聞こえた



 

口が寂しかったので、甘い菓子を咥えた。噛みしだくと、舌の水分が摂られて痛いほどに甘味を感じる。吐き出したい衝動に駆られるが、抑制し、充分に咀嚼し咽喉の奥に押し込んだ。
躰が震えた。胃が塩を降った蛞蝓の様に萎縮した。
着ている背広を嗅ぐ。樟脳が馨った。
いつしか止んだ誦経に漸く気が着いて、雪見障子を開ける。
凄烈な西日が家屋を抉って深い陰影を刻んだ。
凡ての背徳を許容するその橙色。
思わず歓声を上げるかと思われた。
視線を僅かに動かすと、誰かが傍に居た。ゆっくりと頸を回すと、それは障子の硝子部映し出された己の姿だった。
その己の姿形に異常なほどに驚く。其処には恐ろしく若い男が映っているのだ。……見知らぬ男だったのだ。想起する自分の姿ではない。実態ではないのだ、と願った。
そして気味の悪い程、姉に能く似ていた。
吐息して、瞼を閉じた。
此の儘世界が閉じてしまえば良いのに。

鉦が鳴った。

梅林を行く。
香りを撒き散らす白い梅の木の径こみちに、血の様に鮮やかな紅い椿が首を落としていた。
内城のまたその内側。内堀を渡った此処は御城の領域である。堀は音も無く水を湛える。辺りは薄闇に包まれている。此の堀に浮かぶ御城の敷地内には既に人気は無い。
橋の袂にあった常夜灯が最後の灯だった。
冴え渡る空気。
入母屋造の大屋根、其処に乗る二尾の鯱は高い。三重の最高層には唐破風。大天守が金亀山の天上へ顔を出している。白い漆喰は闇を受けて灰色に染まっている。
背後の人物を窺った。すぐにそれに気付き、此方を見て、優しく笑んだ。
 あの広い屋敷でずっと一人きりだった。
誰かが自分を見てくれることなど、既に諦めていた。
けれど。

「寒くは無い?」

彼の声の調子は凄く好い、といつも思うのだ。とても響くのだ。此の寒々とした胸に。

「大丈夫」

梅が見頃だと此の夜に花見に誘ったのは彼だった。
誘った手前此の寒気を案じているのだろう。
立ち止まって彼と並ぶ。
背が高かった。顔を見たいが振り仰ぐことは不躾に感じられた。だから俯いたまま、彼の手を見た。
「今度、ピアノを教えて下さい」
「興味があるの?」
「ええ、」
肯いた。
「貴方が弾いているから」
どんな顔をしているのか気に成った。きっと困ったような顔をしているのだろう。
彼の大きな手が見詰められることを恥じたのか、彼の衣服の中に仕舞われてしまった。
「いいよ。御屋敷にはピアノが無いから、今度佐和山の家に行こう」
佐和山の麓には彼の実家があるのだ。彼の父親は大きな楽団の指揮者を勤めているのだ。二度だけ見たことがあった。直接話すことは無かったが、厳しい人に見えた。
金亀山を上って行くとその頂上では天守閣が聳え立つ。
堅く錠がされ、今は城を護る人々も無い。だが中に入れる術を知っていた。
二人はそっと内部に侵入した。
其処は墨を吐いたように暗かった。そしてしん、と水を打ったように森閑としていた。世界中の人が死に絶えたかと夢想するほどに静かだった。
だが幼い頃から馴染んだ御城なだけに手探りで闇を進んだ。
「待ってくれ。僕には解からないよ。何処に居るんだい!?」
焦ったような彼の声が響いた。
「こっち」
自分の声に驚いた。此の天守と言う堂内は思った以上に響くのだ。
「何処だい?」
「此処だよ。此処っ」
眼は未だ闇にも成れず、声でしか互いの場所や距離感を図れなかった。
まるで目隠し鬼のようだ、と思った。

呼び掛けて、返して、呼び掛けて、返して、呼び掛けて、返して

天守の最上階で小さく呟いた。
「此処だよ」
人の気配を近くに感じた。
だが、見えなかった。
その見えない腕に抱きすくめられた。
思った以上に確りとした腕である。その胸に頬を寄せる。
「抗うのだったら、今だよ、」
 あの広い屋敷にいつも一人きりだった。
 父も母も、息子には興味の欠片も抱かなかった。彼らの興味の対象は常に歳の離れた姉に向けられていた。聡明で美しい、産れ着いて弱視で歳を経る毎に視力を喪った姉。
 婿を獲り安穏と日日を過ごす彼女を妬まなかったと言えば嘘に成るだろうか。
「彼女を、裏切れる?」
躊躇いも無く肯いた。
顎を捕まれ、唇を吸われる。昔、彼の甥と戯れにしたそれとはまるで違った。
 その夜に彼が触れなかった箇所は此の躰に存在しなかっただろう。項も眼球も腋も胸にも下肢にも足指の間までも彼は蹂躙した。
気が着いたときには腰を高く持ち上げられ、折り畳まれ、反され、ただただ痛くて心地好いとも判別出来ず、自身が迸っていることさえ解からなかった。
芯を貫く痛みと、誰のものか判らない迸りの臭いと、口から湧き上がる唾液に、塗れた。
焦れたそれを搾り出すように、強く、烈しく、抱かれた。
彼の妻よりも、烈しく、殊更に、烈しく。
姉との情事がまるで嘘のように、人が違うように思えるほど、彼は強く淫らだった。
 期待した甘い囁きも、辱めるような言葉さえなく、行為と、それに伴う嬌声なのか悲鳴であるのか判別の出来ない声だけが天守に響いていた。
闇の中での蠢動が終焉を迎えると、彼が窓を開いた。
十六夜が目の前に在って、か細く世界を照らし出していた。
僅かに開いた花頭窓から、眼下に広がる梅林の赤さが目に付いた。
そして声を掛けられる。
「辛い?」
ちょっと声がしゃがれていた。
頸を傾げたが、それが理由では無かったので、頸を振った。
「厭だった?」
「………いいえ。いいえ。そうじゃない…」
言葉を口に出せば出すほど、躰が震えた。
「後悔を、している?」
何度も何度も頸を振った。
「いいえ…。いいえ。違う。そんなことは、まるで違うんだ」
呼吸を整えて言った。
「僕は…嬉しいだ。貴方と見られる地獄を夢想して嬉しくて堪らないんだ…」
そして凄絶に笑んで、彼は優しく口付けをした。
「帰ったら甘いお菓子を食べよう」
宥めるように言ったがそれは寧ろ彼の好物である。だが強く肯いて、彼の抱擁に身を任せた。

それは彼の児が此の世に産み落とされた夜のことである―――――――

瞼を押し開くと其処には未だ日があって、記憶を反復していたことを知った。
余りの眩しさに障子を閉めた。
眩暈を引き摺って、また、甘い菓子を食べた。
気が遠くなるほどにそれは甘い。
もう誰もいない此の屋敷で、廃屋の中で、一人甘い菓子を貪る。


何処か遠くで弔いが聞こえた




 

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