忍者ブログ

静寂が実体で喧騒が虚構

千燈会の夜の続き的な…
 

冬の朝、祖母の葬式の次ぐ日は雪だった。
夜分薄らとした雪は暁を迎える頃には踝まで埋まるほどになっていた。

しめやかな、喧騒の済んだ朝に遅い弔問客だろうか、と朱は玄関を開けた。
黒い服装をした智積が雪を被って立っていた。
長い間外界にいたことを想像させた。
「智積先輩、どうしたんですか?」
朱が声を上げるといつものような皮肉さ加減で智積はちょっと笑った。
「あんた卒業式に来なかったし…あたしは昨日此処へ来られなかったから」
黒い上衣と黒く短いスカートだけで、脚は素足で革靴を履いているだけだった。外套も襟巻きもない。寒冷な気候に頬は真っ赤で唇は青味を帯びていた。

智積が彼女の右手を差し出した。手には大きな封筒があった。
「あたし、もう此処を発つの。だから挨拶に来たんだ」
此れ上げる、と言った。
吐く息は眼前が曇るほど白かった。
「兎も角、中。家に上がって下さい」
「いいよ。遠慮する。すぐに帰るから」
ちょっと頸を傾げた様子が艶めかしく思わず朱は赤面した。
「……夏に、あたし、声を掛けられなかった…」
「え」
突然智積に話がとんで、朱は戸惑った。
夏には――――――忘れがたい記憶と真実が、在った。
「人込みの中、あんたが、いた。赤い浴衣で狐のお面を着けていた。傍には、あいつがいた。必死に手を繋いでた」
「あいつ、って」
「千本木。あの、いけ好かない野郎」
………その人込みとは、千燈会のことだ―――――――
智積はあんなに人が居る中で、朱を見分けていたのだ。
智積が洟をすすった。矢張り寒いだ。朱の膝と歯も震え出していた。
「やっぱり中にどうぞ」
「いいよ。居るんだろ。あいつ。……同席したくない」
吐き捨てるように呟いた。
「埋木はあたしに嘘をついたんだ。そして、千本木を獲った……。そうだろう?」
真っ直ぐな眼だった。
「いいえ……」
否定を言い出しかけて、朱は口を噤む。
智積が欲しいのはそんな言葉ではないことに気が付いた。
「あたしは、あんたを呼び止められなかった。…何も出来なかった。それが…悔しいだけ」
紙袋を朱の手に捻じ込んだ。
「此処を離れて遠くの音楽学校に行くんだ」
そういえば智積の進学の話は今まで耳にしたことがなかった。
けれどそれは彼女に関わる不名誉な噂の所為だと思っていたのだが。
「ほら、あたし妾の子だろう?正妻は母親を亡くした夫の子供を何処かに遣りたくて仕方ないんだ」
朱は智積を凝視した。
彼女は噂を肯定した。
今まで明言を避けてきたのに。
「ずっと…専門ピアノをやりたかったんだ。だから利害の一致」
然も面白いといわんばかりの様子で言った。
「もう、此処には永久に戻らない。埋木にも、会わない」
唇を噛む。
「好きだよ」
突然の言葉に朱は一瞬茫然として、戸惑った。
智積は学内で絶大な人気を誇った。
美しい面に繊細な指の持ち主。人が語るに余りに官能的でいやらしいことを思わずにはいられないらしい。
けれどその指はしなやかに重厚な音色を導き出す。
他の土地に優秀な教師を求めねばならなかった程。
「じゃあ」
踵を返して智積は遠ざかる。
そして二度と振り返らなかった。
幾度呼ぼうと追い縋ろうと智積は二度と引き返さないだろう。
雪と靄に掻き消えて、智積は完全に見えなくなった。

玄関の框に千本木が座っていた。朱は大層驚いた。
「行かなかったんだ」
「先生、知ってたんですね?先輩が他に行ってしまうこと」
きつく睨み付ける朱に千本木はやんわりと笑う。
「知ってたよ。当然だろう?俺は教師だぜ」
「何で教えてくれなかったですか?」
「葬式だったし、奴が朱に会いに来ることは眼に見えていたから」聡い男だ。厭になるほど。
「行かなかったんだな、奴と」
「行きません、…兄さんがいるから。…先生の言い方、まるで先輩と一緒に行って欲しかったみたい」
「欲しかったよ。朱は…此処を出たほうが良かったんだ」
朱は履物を脱いで家内へ上がった。
千本木も立ち上がる。
手には徳利を持っていた。
「弔い酒」と言い訳した。
「…私はいつか此処を出るから、好いんです。いつかお嫁に行くもの。そして兄さんは何処へも行かない」
この家から人が居なくなるのはそう遠いことではない。
「そりゃ、野望だねぇ。此の旧家を潰すたぁ」
朱はゆるやかに首を振った。
双房に括った髪が揺れた。
「違うわ、」
否定して
「摂理よ」
薄らと笑った。
もしかしたら今自分は綺麗なのかもしれない、と朱は思った。智積のように。
何故なら千本木が眩しそうに眼を細めているからだ。
朱は自分も智積と向かい合うとき度々目を細めた経験があった。彼女は誰よりも美しい。
雪の中の椿に似て。
敢然として。

拍手[0回]

PR

この記事にコメントする

お名前
タイトル
メール
URL
コメント
絵文字
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
パスワード

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[07/25 関口の知人ですが]
[04/07 恵明/寒林]
[03/31 金魚]
[11/08 恵明]
[11/07 金魚]

最新TB

プロフィール

HN:
寒林
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

最古記事