唯今、姑獲鳥鑑賞中。
以下は魍魎の匣/映画の感想です。
気分が悪くなること請け合いなので、基本的には読まないこと推奨。私がすっきりしたいためにかいたので。
映画/魍魎の匣を猿平成十九年極月二十六日に観て来ました。
映画と小説(原作)とは別物。
映画に於いて原作は飽くまで映像の為の原作に他ならず、原作の為の映像ではないということ。
果たして原作の為に可視化するのでもないし、それに忠実に扱うものでもない。
それは重々承知の上で言わせて貰えば、魍魎の匣は残念なものに他ならなかった。
正直見終わった時、気が抜けた。
前のシートに突伏したほどだ。
長大な物語だから、凡てのエピソードが組み込まれるものではないことも理解している。どうしても榎木津と中禅寺が派手な存在だからそれを中心に描いた方が映えることも理解できる。
だから屹度原田監督は、魍魎の匣と言うものを解体して再構築したんだろう。
凡てが凡て違っていた。
それもある人に伴うエピソードを手持ちのカードで補おうとするから、歯の間に物が詰まったような齟齬を感じる。これはどうしても否めない。
榎木津は車を持たない。車を持つのは鳥口のはずだ。けれども鳥口は自転車である。
でんすけは鳥口を映えさせる小物のはずだったが、それは敦子の記憶力に取って代わられた。
関口が甲斐甲斐しすぎる。奴は茶を淹れるような小忠実な男じゃないような気がするんだが、原田監督にはそうかんじたんだろうか。しかしそれは関口だろうか。
本来は里村先生の科白がよりによって青木に。
因みに私が好きだったエピソードが凡て削られていたのが痛かった。
御亀さまは何処行った!なんで亀山歯ブラシになっているんだ。
関くんの小説の順番とか関くんの小説を京極が読み上げるとか…
なんで薔薇十字探偵事社がバラックの中にあるのか?
たぶん原作を知らなければ、乃至は此処まで思い入れがなければ、面白がれたんだろうが、無理だった。
映画単体を観れば映像は綺麗だったし、中国風の怪しげな町並みは実に興味深い。運河ななんかは全然日本じゃなくて個人的には大好きだ。
駄目だ、映画と小説を切り離せない。し、だったら姑獲鳥の方が私には向いていた。仮令、水が火に取って代わられていようと!世論を見聞きする限り、これはマイノリティらしいが。
椎名林檎も大好きだけど、京極ではないような気がする。
なんだろうなぁ、私は京極作品って横溝なんだけどな。
あ、市川崑に監督して貰えばいいんだよ!京極さん!
キャストについては今更何も言いようが無いが、椎名さんはいっそ木場でも良かったんじゃないのかと思える。昔、永遠の仔と言うドラマで刑事役をやっていたし、この人痩せるも太るも自由自在だし。
少し恰幅よくすれば。
と言うても、宮迫の木場は私的にOKなんですが。身長に難があるだけで。