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無題

父帰る

 汗が頸の後ろをつと伝った。
項を髪が汗で張り付いて気持ちが悪い。
だから夏って厭だ、と独語した。
照り付ける太陽と朦朧とした暑さに汗腺が緩み滲みでて躰中を覆う。
タオルなどは疾うに汗に濡れて役に立たない。
今日の最高気温は四十一度だと聞いた。全く気の狂いそうな暑さだった。
能く死者の出ないものだ。
道端の樹木が僅かに影を作り一瞬涼しく感じたが、それもすぐに錯覚だと知る。暑さは上から降り注いでいるわけではないのだ。此の世界を包んでいるのだから。其処に立っている限り此の暑さから逃げ出せることはないのだ。木の下は蝉の声が忙しなかった。
それを聞く内に、夏が好きだった奴がいたことを思い出した。
額を拭いながら、今頃何処にいるのかと思った。
あいつは汗を掻かない体質だった。
否、汗を掻かないのではなく、どうしたら汗を掻かずに済むのかを知っていたのだ。夏になると、涼しい箇所を見つけては其処で居住していた。
それも野性的に直感で。呆れるほどだ。
暑さを誘う、命を削って忙しない蝉に勝手な悪口あっこうを投げつけ、木陰を出た。
直射日光が照り付ける。
逃げ水が眼前にゆらゆらと這い蹲る。
茹るようだった。
今日何度目か数えることを放棄した溜息を再びついた。
今頃は南米だろうか。
三月にアラスカから手紙を貰った。
何故こんな時期にアラスカなどと言う土地に居るのか、巫山戯て居るのか、と腹立たしくなって、届いた手紙を読んだものである。
手紙の内容も大変素晴らしく巫山戯ていた。
…もっとも、巫山戯て居ると受け取ったのは此方だけで、彼方は大真面目だったのだろう。
文面は、
『御無沙汰している。私は元気だ。世界が寒い。楽しいぞ。南下する。草々』。
差出人の名前さえ記されていなかった。
汚らしい文字。手習いを始めたばかりの小学生のようだ。何時まで経っても子供じみた文字を書くと冷ややかな笑いが漏れたほどだ。
思い出すだけで、呆れ感情が蘇ってきた。
そしてまた汗が首筋を伝った。

「ああ、本当に髪切ろうかな」

貴妃たかきは髪を掻き上げた。
生来髪は茶色く、肩甲骨を下回るまでに伸びていた。
好い加減切る頃合だろう。いつ帰るとも知れぬ人間のことなど忘れてしまっても好いのかもしれない。そうだ、そうなのだ。
あいつはいつだって何か自分が無茶をしたい時、貴妃に怒られないために好い加減なことを口走るのだ。呆れた人物だった。
暑さの中で苛立ちは尚体感温度は増した。
何を言っても物事と言うものは結局自分の中でしか解決しないことを貴妃は知っていた。
だから只管家路を急ぎ、早くシャワーを浴びたかった。

 鉄柵の大きな門を潜る。錆付いた門はどうにか人一人通れる程にしか開かなくなって久しい。門を入ると其処には庭が広がっている。庭掃除が大変であるから一度として草むしりをしていない。立ち上る草いきれは余り好ましく感じなかったが、蟲の鳴き声が素敵で中々風情がある。あれから貴妃は何処までも前向きだ。
庭を抜けると其処に在るのは崩れ掛けた屋敷だった。
二階建ての洋館である。外見上の構造は比較することも憚られるが長崎にあるグラバー邸と似ている。新しい物好きであった貴妃の曽祖父が明治期に建てた物だった。それから修理を入れたのは僅か二階と聞く。
昭和に入ってからは終戦直後が最後だ。
そりゃ崩れもする筈さ、と呆れたものだった。
全く貴妃の周りには呆れるものが勢揃いだった。
建て付けの悪い玄関の扉を開けた。映画の効果音のように奇怪な、幽霊屋敷のような音を響かせる。

幽霊屋敷。

話を聞く分には楽しい設定だが自分の家であると思うと泣けるほど虚しくなってしまう。
入れば其処は広い、二階まで吹き抜けとなった玄関ホールである。
高い天井には壊れて動かない三枚羽のファンが二つ見える。階段を上ると、天井に蜘蛛の巣が張り巡らされて、苦笑を禁じ得なかった。
二階に上がってすぐの扉が貴妃の部屋だった。
板張りの床。立て付けの悪く完全に締め切ることのできない窓。其処から入る風に翻る色褪せた黄色いカーテン。軋む狭い寝台に、変な黄色い箪笥。その横にある天井まで届く本棚。褪せた緑色をした勉強机が此の部屋にある家具だ。
はっきりいって年代物だ。此の室内で一つとして貴妃の為に購入されたものはない。凡て貰い受けたものだった。兎に角荷物を置いて着替えを持って再び階段を下りる。
風呂場は一階にあるのだ。
西洋気触れだったらしい曽祖父は頑固なほどに一切を洋風に拘った。シャワーの金具は真鍮で嘗て綺麗な金色であったらしいが今や剥げ落ちて地色が顔を覗かせている。それが味があってよいと奴は言っていたが、貴妃には貧乏臭い風にしか取れなかった。タイルは白で外国映画に出てくるような足の有る浴槽も白、一見その組み合わせは爽快だが、爽快に感じさせるには貴妃の多分な努力が払われているのだ。
白さは黴の繁殖が能く目立つ。黄ばむ。
だが今は一昨日根気を入れて磨いたばかりだったので清潔で美しかった。
シャワーを浴びて綿の襯衣とジーンズに着替えた。
ジーンズは膝まで捲り上げる。臨戦態勢だ。
こんな広い屋敷を一人で賄うには常に戦える状態でなくてはならないのだ。
濡れた髪を適当にタオルで縛り上げ、モップを握った。
水漏れをする金物のバケツになみなみと注ぎ、ドレッドヘアと思しきモップを水に浸けて床を磨く。放っておけば直ぐに埃が溜まる。それは多分に貴妃の気分を害すので、小まめに床磨きするのだった。
二階まで磨き終わると、日はとっぷりと暮れていた。
一階の居間にある緑色をした此の家では比較的新しい長椅子に胡坐を掻いた。長椅子と卓子の向こうにある年代物のレコードを掛ける気にも成らず其の侭長椅子の背凭れに寄り掛かり庭の虫の音を聞いていた。
暫く其の侭で眼を瞑っていたが、状態が余りにも情けなかったので、夕食の準備に立った。
台所に行き冷蔵庫の中を開ける。
昨日茹でた素麺が冷蔵庫の中で固く成っている。貴妃は掃除と料理を日替わりで行う。双方をこなすことは大変だし中途半端も厭だったからだ。
今日は掃除の日であった。
貴妃は大抵こんな風に一日を過ごしていた。
好い加減飽きたものだが、せずには居られない自分の性分に地団駄踏みたかった。

翌朝、郵便受けに赴くと、滅多に無い郵便物があった。
絵葉書だった。
豊穣な自然に古代の遺跡が溶け込んで瑞瑞しいとても綺麗な写真だった。
そしてそれを引っ繰り返すと、『帰る』も文字が、あの下手としか言いようの無いもしくは芸術的とも言える文字で書かれていたのだ。
貴妃は驚いた。
何よりも先ず驚いた。
そしてどうしようと考えたのだ。
漸く奴が帰ってくると言うのに。
長いこと待ち侘びた父親が帰ってくると言うのに。
そんなとき、玄関のチャイムが鳴った。
否チャイムなどと言う代物では無い。割れ鐘のような音を響かせる時代物だった。
時計の針は本日二回目の十一時を示していた。コンナ時分に遣ってくるのは、幽霊かもしくは一人しか心当たりは無いのだ。
だから貴妃は玄関まで出て行かない。
訪う人物は、此の居間まで遠慮も無く、上がり込むことを知っているからだ。

「よお、」

案の定、客は遣ってきた。

「ようこそ」

長椅子から頸だけを覗かせて歓待した。
客人は近所に棲む八重ちゃんと言う娘だった。
貴妃の友人である。互いに物心が着く頃からの付き合いである。
八重ちゃんは美人だ。澄んだ眸は毀れそうに大きく整った鼻梁、大きな口、髪は短い。ショートヘアよりももっと短い。
涼しそうだと貴妃は羨ましくなる。
スタイルも女性として申し分無い彼女は、パジャマ姿だった。
八重ちゃん宅から此処までの道程を年頃の娘さんがパジャマ姿で来たのだ。ちょっと呆れた。
断りなしに八重ちゃんは貴妃の隣へどっかりと座った。

「親父さんから手紙が来ただろう」

「ああ、うん…」

「どうせ貴妃のことだから困ってんだろうなって思って来てやったんだぜ」

彼女の麗しい唇から乱暴な言葉が吐いて出た。
八重ちゃんは一寸変わった子だった。
昔から。
いつだって貴妃が困ったな、と思うと何も報せていないのに、突然現れては傍にいるのだ。それは蟲の知らせとでも言うのだろうか。
……能く判らない。
いつも早寝の八重ちゃんは寝ようとしていたのだろう。だから、今の八重ちゃんはパジャマ姿なのだ。

「親父さんから手紙が来たのが見えたんだ。どうせ奴のことだ。文面は『帰る』程度だったんだろう」

貴妃は言い返す要素の無い言葉にゆっくりと肯いた。此の幼友達は貴妃のどうしようもない親父に容赦が無い。いくら救いようが無くても仮にも友達のちとやだと言うのに、『奴』呼ばわりだ。

「いなくなったの、いつだっけ」

「一昨年の夏」

もう二年経つことに気が付いた。
早いものだなぁと呟くと八重ちゃんが呆れた顔で貴妃を見る。その呆れた顔が美人にあるまじきものだったので、貴妃は笑い出してしまった。

「手紙は何処だよ」

貴妃は卓子の上の絵葉書を指し示した。
八重ちゃんは歓声を上げた。

「人間何か取り得が有るもんだな。あのどうしようもない親父が、能く撮れるもんだ」

そう、この写真は八重ちゃんが言う処の『どうしようもない親父』が撮ったものなのだ。彼は一応それで飯を食うプロフェッショナルだったのだ。

「うん」

写真を凝視して八重ちゃんは頷いた。

「綺麗だ…。南米…かな?」

色取り取りの豊穣な緑。森閑としていてそれでいて濃密な臨場感が伝わる。
それは、南米の遺跡の神の姿だった。
神々しいとか、そんな言葉ではなく、自然の一部だった。

「うひゃあ、本当にこれだけか。呆れた奴だな」

八重ちゃんは父親の文面を見て驚きの声を上げる。

「下っっ手な文字ィィ」

大きな口を更に大きく開いて大笑いをする。
その光景は彼氏に見せないほうがよいだろう。八重ちゃんは彼氏の前では完全に己れを作っていた。
綺麗な八重ちゃん。
一寸彼女が羨ましかった。

 貴妃とその父親、一部に絶大な支持を受ける写真家のarashiは戸籍上は正しく父親であることを保障されている。
だがそれが真実か否か、真相は『藪の中』である。
 貴妃の母親は奔放な女性だった。
彼女は美しくで、しかもそれを自覚して存分に有効利用したのだ。多くの男性と親しかった。そして最終的に貴妃の父親と結婚したのだが、その結婚の直前まで大勢の男性を重ねていたのだ。恐らく母親でさえ、貴妃の父親の特定は出来なかったと思われる。そして産み落として一年もせず呆気なく逝ってしまった。
貴妃は母にも父にも似ていなかった。強いて言えば写真でしか見たことの無い母方の祖母に似ている。母は既に二親が無く、ずっと独りだったのだ。
貴妃と言う名は母親が着けたという。字面を見れば瞭然だが、貴妃と言う字は古代中国の後宮の妃の冠位名である。
母親は「楊貴妃こと楊玉環のように美しくかつ我が儘になりなさい」、と此の名をつけたらしい。申し訳ないが貴妃は楊貴妃のようには成れなかった。

「親父さんなんで行っちゃったのかな」

そうあの親父は貴妃が受験生だと言うのにその追い込みの夏に突然姿を晦ましたのだ。簡単な書置きと当面の生活費が振り込まれた通帳を置いて。
当初憤慨して周囲に当り散らしたが、すぐに熱は退いた。
……恐らく、父親は気付いていたのだ。
貴妃の気持ちに。
貴妃の初めての恋は、他ならぬ父親だったからだ。
貴妃は幼い時から口さがない大人たちの言葉を聞いてきた。
「貴妃ちゃんの父親は違う人かも知れない」
幼いころには何のことだか判らなく、父親からそんな話を聞いたこと無かったので、歯牙にも掛けなかった。だが、初めて夢精を経験した朝、夢の中に居た人物が父親であることに途方に暮れてしまったのだ。
本当に突然だった。
意識してしまった。
自分の置かれた複雑な状況と、思春期と言う一種病的な世界にいたからなのだ、と今なら思う。だがその時は八重ちゃんにも言えず、一人悩んでいたのだった。
今の時代、DNA検査とか言う能く判らない代物があるから、貴妃と父親に血縁関係があるかないかはすぐに解かるだろう。
だが、もし借りに血縁関係が無いとの判定が出てしまったら母親が独りであったように、貴妃も一人になってしまう。
怖くて、恐ろしくて、仕方なかった。

恐らく……あの父親は、あの『どうしようもない父親』は知っていたのだ。

そして貴妃から離れることを決めたのだろう。
突然居なくなる前の晩、此の居間で親子してビデオ鑑賞をしていると、貴妃の短い髪を掴まえて掻き雑ぜた。貴妃が文句を口にすると、父親は猫のように笑って『伸ばしたら綺麗だろう』と言った。
唯一母に似た生来茶色い髪。
学校ではあれこれ言われるが、父親は此の髪を気に入っているようだった。
此の家で一人になった日から、髪を伸ばし始めた。

「此の間本屋で奴の写真集を見かけたぞ。なんか、寒そうな写真だったな」眠そうな微睡みに塞ぎ掛かった眼をした八重ちゃんの声が突然耳に入って吃驚した。

寒そうな写真。
それはアラスカの写真だろう。
新しく刊行されたものだ。
自分の家には入れなくとも出版社とは頻繁に連絡を取り合っているようだ。

「どうしようもない奴だけど……良い写真家だよな」

それだけ言って八重ちゃんは心地よい寝息を発てはじめた。
庭では蟲の音の大合唱の状態だが、五月蝿くは無い。
子守唄のようだった。

『良い写真家』。

八重ちゃんの言葉が一寸嬉しかった。
あの父親はいつもと変わらない状態でふらりと帰ってくるだろう。
そうしたら貴妃もいつものように始められるかもしれない。
普通の親子のような。普通な生活が。
先刻までの困惑した感情が嘘のように霽れていた。
何だか父親の帰宅が待ち遠しくなっていた。
未だ胸は高鳴るけれど、月日は確実に貴妃を変えている。
貴妃はもう一度、葉書の写真を見た。

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