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皐月闇

 雨が降る前の薄らと暗くなった中、坂下から業業と燃え盛る焔を見ていた。
朱い焔と黒い煙の上には低く垂れ込めた雲が空を覆っていた。
梅雨特有の此の薄闇を皐月闇と言うらしい。
そして穹が霽れれば、夏が訪うことを感じていた。
 

 眼が覚めると辺りが静かなことに気付いた。明るい障子を見遣って朝が訪れたことを知った。床から這い出て、障子を僅かに開いて外界を覗き見た。
雑木林と手入れの行き届いた茂みを背景に
雨が、降っていた。
烈しく降るのでなく、囁くよな、煙るよな。
静かな雨である。
音も無く、ただ、静か。
庭では薄青の紫陽花が繚乱として小糠雨に濡れていた。
やや膚寒い空気の中に水の密度を濃く感じ、ラジヲが入梅を告げていたことを思い出した。
四畳半の正方形をした室内。畳の藺草の青い香り。昔風の奢侈な縁は擦り切れてきていた。部屋の端には文机や台洋燈、錦を被った鏡台があった。
天井からは乳白色の刷り硝子に蝶の透かしが彫られていた。
はた、と此処が自分の家ではないことを思い出した。

「漱起きたの?」

少女の声が漱を呼んだ。
慌てて返事をすると廊下に面した唐紙襖が開いた。黒い断髪の少女が顔を覗かせた。
舶来人形のような派手な顔立ちだが、白黒写真が立ち現れたような錯覚が襲った。

「綾」

漱は少女の名を呼んで漸く覚醒する。此処は綾…従姉の家なのだ。昨夜遅く着いた漱は綾の顔を見ることも無く床についてしまったために意識があやふやになっていた。
瞬きの間漱は少女に見蕩れる。
綾は小さく猫のように笑った。
戸を開けたまま室内に入り込むと漱の前に座った。
「寝坊よ。あっちの家に居る時もこうなのかしら」
漱はちょっと顔を紅くする。此の従姉にはどうにも弱いのだ。
「今幾刻かな…」
四辺を見渡せど時計が無かった。
「さあ知らない」
頸を振ると断髪の先が綺麗な弧の軌跡を描く。
「でも兄さんが出た後だから」
それならば精精八時を廻ったところだろう。寝坊を言う程ではない筈だ。
漱は僅かに抗言した。
だが
「何を言うのよ。人間日が昇ったら起きて沈んだら眠るものでしょう?今の時節日の出は四時半よ。やっぱり寝坊じゃない」
と一蹴されてしまう。 そもそも日の巡行に沿って生きることなど現代の人間には土台不可能なのだが、この少女にそうした常識は存在しないのだ。
その意味に於いて綾は現し世に生きる人間ではなかった。
白黒写真だ、と漱は無礼にも綾を眺め遣った。
「着物……」
綾は黒い着物を着ていたのだ。
「厭だ。私はいつもこれでしょう?」
そうであった。綾は幼い日から毎日を着物で過ごしているのだ。
日常漱の周囲で和服姿を眼にすることは酷く珍しいのだ。
黒い衣に能く見れば細やかな刺繍が施されている。頸元までをきっちりと絞めて、何処と無く不自然だった。
梨の花にも似た赤味を持たない白い膚に漆黒の頭髪に黒い着物が彼女を白黒の世界に置いていたのだ。
「でも漱も人の着ているものに気が着く年頃になったのね。大人じゃない」
彼女の中で唯一の紅である唇が優美に釣り上がった。
「早く起きて頂戴。食卓が片付かないでしょ」
彼女は立ち上がって部屋を出て行こうとしたが、不意に振り返る。
「ねえ、」
漱を凝視する眸。
「な、何?」
「立ち上がって頂戴」
命令されるがままに漱は腰を上げる。
すると余程寝相が悪かったのか、漱の寝巻きの帯が解けた。
綾に漱は裸躰を曝すことになった。だが綾は動じる様子も見せず漱をちょっと睨んだ。羞恥に慌てたのは漱で慌てて帯を結び直す。
 気が着くと綾は漱の真前に立って彼の顔を覗き込んでいた。
目線がほぼ一緒である。ならば背丈もほぼ同様と言うことだろう。それを確認すると綾は再び微笑む。
「なんだよ」
「草も着物を着てみない?背丈も殆ど一緒でしょう。私の物だったら丁度良いわ」
揶揄われていることを感じて漱が顔を顰めると綾は声を上げて笑った。
「言っておくけど、本気よ」
綾は不適な眸を見せて廊下へ出て行く。漱は乱暴に唐紙を閉めた。
「着替え早くなさいね。私を待たせるなんてことしないでしょう?」
静かな跫音が遠く消える頃、漱は再び庭を見遣った。

 綾は漱の従姉で幼馴染である。
彼女は昨夏に祖父を亡くし此の大きな間人の御屋敷で兄と二人で棲んでいた。現在は漱と同じ十四歳である。もっとも漱は早生まれで、秋に生まれた綾の方が半年ばかり「姉さん」であったのだ。
である所為なのか何かと綾は命令するのが瑕だった。
綾は綺麗な少女である。
容貌も、その性も。
染み一つ無いカンバスにように。無菌室で育てられたように。実際これ以上ないほど過保護に育てられた。生来の虚弱体質の為に此の女孫を溺愛した祖父によって家から出されることが滅多に無かったのだ。
勿論学校にも通っていなかった。
綾には友人がいない。同年の漱は綾にとって数少ない遊び相手だった。
特に十二歳も歳の離れた兄が他の土地の学校に行ってしまってからは唯一と言っても良い。
漱は夏期休暇に入る以前の梅雨時期を含めた夏の間中、此の間人家へ滞在することが当然の習慣だった。
 綾に双親は亡い。
昔事故にあって死んだと聞くが定かではない。もう一つ噂があるからだ。夫婦の心中であった、と。もっとも確証も無く、また漱は興味も無かった。
 漱は綾のことが純粋に好きだった。間人本家の総領であった祖父、その外数多の親族は漱を綾の許婚として扱った。
漱は綾が「すすぎ」と発音出来ず「そう」と音で呼んだその時までも鮮明に覚えていた。

 着替えて居間へ赴くと卓子には二人分の食事が用意されていた。それらを前に綾が些か苛立ったように頬杖を着いて居た。
「遅いわよ」
咎める口調だ。
「綾、未だ食べてなかったの?」
「何よ、待ってたんじゃない。漱が起きてくるのを」
「にいさんと食べているかと思ったんだよ」
漱は綾の相向いに腰を降ろした。
「兄さん朝は食べない人なのよ」
素っ気無く呟く。
綾は器用に箸を使い出した。
そして猫のように笑った。
「あの人、元々食に対して執着がないのね。私思うのだけど、食べることって生きる上で最も重要な行為でしょう?食べることに執着の無いあの人は生きることにも執着が無いのかもしれないわね」
辛辣な言葉だったに思えた。
彼女が笑っていなければ。
それぎり彼女は黙ってしまった。嫌いな食品があったのかもしれない。嫌いなものが食卓に上がるだけで一週間は不機嫌なことが間々有るあるのだ。
偏食窮まる綾は食べられるものだけを口にして颯々と居間を退いた。
綾に遅れること漱も漸く食べ終わり居間から退こうとすると、何処からとも無く手伝いに来ている槌谷が姿を現した。
 綾が部屋に隠ってしまった為に漱は少々困った。彼のこの家における存在意義は綾にあるのだ。故に綾が居なければ漱は此処に居ることに意味は無いのだ。
 どうしようかと思案し、暇つぶしに坂を下ることにした。

 綾の棲む此の町は旧町と新邸とで構成されていた。
高低の激しい土地柄で、この高台から麓までの範囲を旧町と呼ぶ。
旧町は古い町並みと代々続き由緒を持つ血筋を誇りとしていた。新邸はそれ以外の所謂新興の土地のことであ る。
『上』と『下』とも言い分けられていた。
 間人宗家は此の辺りで旧町と呼ばれる高台の坂上にあった。大きな屋敷でとても古かった。高台一体を間人宗家の屋敷が占めのだ。だから間人宗家のことを土地の人間は『坂上の』と呼んだ。
此の旧町は間人と言う苗字が多い。綾の間人家は、彼ら間人の総領家である。
間人宗家は嘗ては武家の出自で、同時に大層な素封家だった。事業は先の代に一族の他家に譲ってしまったが、現在も存続している大きな商家であった。戦前は財閥を冠されていた程だ。
珍しくも成功した士族の商いである。
 漱の母は他の土地に嫁いだ所為か、その息子は此の土地に郷愁を感じていた。
坂道の多いことに幾分閉口するが、旧い建物が整然と並び、今も人が使用していると言うことは此の上無い魅力だった。町の何処かが旧態依然としたその佇まいさえ好ましかった。
そして此の町を訪れた漱にとって散歩は日課であった。
 静かに霧掛かる雨の中を黒色の傘を翳して屋敷を出た。
坂の上からは狭い旧町全体が見渡せる。雨に濡れて鈍く鉛色に光らせて見せる瓦屋根が一面に広がり、家家の間は黒い木塀で区切られている。その周囲を巡る細い路地がささくれて、道を解かり難くしているのが見下ろせ た。
路地を半ば迷いながら進み、古本屋や鰻床の町屋造の骨董屋を素見巡っていると、昼は疾うに過ぎていた。
膚寒さは一層で、坂下の物見櫓のような鐘楼の聳える門前の田端屋と言う茶舗に入っていった。舗の中は主人の老婆が独りじっと火鉢の前に座っている、閑散とした様子だった。
田端屋はいつも閑古鳥の啼いているような流行らない茶舗だった。
特に今日なぞは膚寒い雨の為に常に増して人の入りが悪いであろうことは察しが着いた。此の舗には御屋敷に滞在中、度々訪れる、数少ない得意先だった。
流行らない様子からじゃ程遠く、此処の団子は絶品なのだ。偏食家を自称する綾でさえ口にするほどである。
 「久しぶりです」
肩の雨粒を払いながら声を掛けると、壊れたぜんまい仕掛けの玩具のように緩慢に老婆は動き出した。初めて此処を訪れてから百年一日とばかりに彼女の風情は変わっていない。
何を注文したわけでもなく老婆は無言で団子を双串と焙じ茶を出し、また定位置に腰を降ろした。注文もせず品が出てきたのは馴染みの客だからではなく、田端屋にはこの他に品がないのだった。
団子と焙じ茶ばかりで腹を満たし、寒さを凌いだ。
無愛想な老婆は矢張り何も話さない。此の梅雨の寒さに彼女の脇には火鉢が置かれ、鉄瓶からは湯気を吐いて据 えられていた。
団子と茶をすっかり腹に収め、何年も変わらない代金を卓子に置き、出て行こうとすると老婆が手を振った。
「いらんよ、」
「え、あの…」
漱は老婆が口を利いたことに驚いた。
「それより嬢さまは如何なすっている、」
老婆と言葉を交わしたのは実に十年にもなろうかと言う月日だった。
「綾…のことですか?」
「お綺麗になったろうな。坂上の嬢さまは」
怪訝な顔をすると老婆は不図笑った。否、実際には彼女の顔に蓄えられた皺によってそれが笑みであるのか否か は判別のつかない所だ。
「彼処の女は恐い。嬢さまも嘸かし美しくなってられよう。もう何年も会っていないがの」
如何答えたら良いか解からず漱は早々に退散することにした。老婆は出て行きがけに「ご兄妹さまに宜しう」 と漱の背に声を掛けた。
舗を出ると空は益々低く、雲は重く低く垂れ込め、雨は音を強めていた。
 玄関を開けると、綾が座っていた。その容姿に勿体無くも仏頂面をさせていたので、昼に戻らなかったことの お咎めか、と思ったが、漱を見ると表情を変えた。
笑顔だった。
「漱、私の部屋にいらっしゃい」
間人の総領であった祖父に溺愛され育った綾は他者に対し権高だ。
彼女の部屋は屋敷の中で最も奥まった処にある。
衣紋掛けには紅い振袖が掛けられていた。
「着てみない?」
どうやら未だ今朝言ってことに拘っているらしい。
「僕が?」
「ええ、あなたが」
綾は微笑んで肯いた。
紅い振袖。綾はその派手な顔立ちから本来はこうしたものの方が良く似合う。また本人も好み、嘗ては能く着ていた筈だ。
けれど今年御屋敷を訪れてから綾が紅い着物など着たところを見たことが無かった。
もっとくすんだ鈍い色ばかりだ。
不図思い至る。
祖父への喪服の意味なのかもしれない。
「似合わないとは思わないのよね。私たちは能く似ているし」
「従弟なんだから当然だろ」
漱の母は、綾の母の妹である。
「着てみてよ」
胸に着物を押し付けられた。
所詮綾には逆らうことなど出来ないのだ。
漱は紅い着物に金糸銀糸の帯を締め、短い頭髪には櫛を入れ簪を着け、剰え、化粧、とは言っても京紅だけだ が、を施された。貝の中に収まった紅を綾は指に掬い漱の唇に刷いたのだった。真剣な綾の顔が緩んだと思う と、彼女は従弟に手鏡を渡した。
「どうかしら」
漱は呆気に取られていた。覗き込んだ手鏡の中に居たのは…従姉であった。
「綺麗でしょう?」
訊ねられても漱は戸惑う他術は無かった。綺麗でしょうと褒められても、自分が女のようで気色悪い感覚が強 かったのだ。然し綾の手前、苦くとも笑むことしか出来なかった。
「本当、漱が女だったら良かったのに」
何を言い出すのか、漱は眼を剥いた。
「そうしたら、こんなことも出来るのに」
綾は漱の頭を抑えて彼の唇に接吻した。眼を瞑る間近に迫る綾の長い睫毛を眼にすると、漱は躰から力が抜けて往き、為されるが侭になった。
綾の舌は漱の唇を割り、彼のそれを絡め取った。
其の侭漱の躰を畳の上に伸した。
『間人の女は恐い…。嬢さまも嘸美しく……』
誰の言葉だろう、と漱は惚とする。
確かに綾は美しい。漱は茫然と自分に覆い被さる従姉を見上げていた。
綾が漱の髭痕も無い頤に唇を滑らすと、唐紙襖の開く音がして、漱は自然、音の根源を追った。
其処には、従兄の理一がいた。
「従兄さん」
小さく掠れた声で呟くと、綾は蠢くのを止め、従弟の目線を追った。
「……」
綾は何も言わず伸した漱に覆い被さった侭、理一を睨みつけた。
そして立ち上がると一瞥もせず理一の横を擦り抜け出て行ってしまった。
押し倒されたままの状態の漱は羞恥に顔を熟れた柿のようにした。理一は唐紙を閉め、ゆっくりと漱に近付 いてきた。
「あ、あの…」
漱がどう言い訳をしたものか逡巡していると、理一は従弟を抱き起こす。
「大丈夫か、漱くん」
理一は片膝を着いて落ち着いた口調で訊ねた。従弟を見ると彼は端麗な顔で微笑んだ。
漱は此の人物が慌てた所を未だ嘗てて見たことが無い。
どうやらこの鉄面皮は仮令自身の妹の情事を目撃しても変わることは無いらしい。
「アレの悪巫山戯を許して欲しい」
妹の謝罪をしているのだろう。だが理一は余りにも冷淡に感じた。
そして年少の従弟を見詰めた。
余りに凝視するので恥ずかしくなった。
「なんですか?」
漱の声を聞くと現に引き戻されたように理一はすっと従弟から目線を外した。
「否、すまない。…君はそうしていると、あの子に能く似ているね」
「そりゃ従弟ですから」
自嘲気味に理一は笑った。
「僕は兄妹だけれど、些とも似ていないよ」
漱は如何答えたら解からなかった。故に彼は沈黙する以外になかった。
「……由無いことを言ったな。済まない。忘れてくれ。……これ、脱ぐんだろう?僕は出て行こう」
「あの」
出て行こうとする理一の衣服の裾を掴んだ。
「此れ、の、脱ぎ方……解からないんですけど」
ちょっと笑って理一は肯いた。漱に着せられていた着物を手馴れた動作で剥がして行く。次いで簪を取り、懐 紙を渡して紅を拭うように指示した。
全てを剥がれると漱はその手早さに感動した。
「手馴れているんですね」
従兄の一々が手馴れた様子に邪推な想像を廻らせた。
「年長者を揶揄うもんじゃないよ」
理一は軽く窘めた。
脱ぎ散らかされた衣服を漱に渡し、理一は出て行く。取り残された少年は少女の部屋で着替えをしていること に奇妙な恍惚を憶えた。

 理一は漱の従姉の兄である。
こういう説明の仕方は可笑しいのかもしれない。綾の兄ならば漱にとっては従兄だからだ。
実際漱は理一のことを「にいさん」と呼び習わしていた。
しかし漱にとって理一は綾の兄であっても従兄では無かった。漱と綾の血縁関係は双方の母親が姉妹であることにあるのだ。
長子であった伯母は婿を獲り此の間人宗家を嗣いだ。また次子であった漱の母は他の土地へ嫁したのだ。
漱にとっての義理の伯父は優しく気の弱そうな、実際そうであった、人物だった。伯父は婿入りして直ぐに此 の家が息苦しく感じたのだろう。
脇に女性を置いた。
そして子まで孕ましたのだった。
それが理一である。
児が出来ると伯父と理一の母は別れることを余儀なくさせられた。
伯父は妾とその児よりも、間人を獲ったのだ。
その数年後、伯母に児が出来ると、時を同じく彼の愛人は逸病に呆気無く逝き、理一は間人に引き取られた。 理一が一滴も血の繋がらない祖父に厭われたのは言うまでも無い。間人の面目は丸潰れだったのだ。だが間人の 一員と成った限りこの血の繋がらない男孫も祖父は恥ずかしくない教育を受けさせ、理一もまたそれに能く応え た。
伯母に産まれた子供つまり綾が虚弱体質だったことが要因してか、理一は医学の道を歩む。
遠い土地の大学を卒業して暫しその研究室に残っていたが昨夏祖父の死去に際し、屋敷に綾に一人になるので理 一は此処に戻ってきたのだった。
今は隣町の大病院に勤め、妹の主治医をも兼ねている。
だが……久方ぶりに会った間人兄妹は間は奇妙だった。
仲違いでもしているのか、彼らは決して口を利かない。
彼らの間には沈黙しか存在しない。
 漱は自室に戻る他無かった。
そろそろ夕餉の時分であるがその時には賄いに来ている槌谷と言う姓の女性が呼びに来る筈だ。御屋敷の漱に 与えられた自室は綾の部屋よりそう遠くない。
自室の襖を開けると、冷気が立ち込めていた。
綾が其処に居て障子を開け、外界の濡れた様子眺めていた。ゆっくりと此方へ大きな毀れるような眼が向けられ る。
「脱いじゃったのね」
そう言って一瞬にして眼を逸らし障子を閉ざし、漱にも唐紙を閉めるように命じた。障子の前の台洋燈を置い た文机に綾は肘をついていた。
胡坐を掻いた漱を見詰め、綾は微笑する。
「先刻はどうみても女の子だったのに。やっぱり、男の子ね」
一切の人工の光を排した室内は薄暗く、お互いの顔も薄らとしか判別出来ない。
「……兄さん、何か言ってた?」
たっぷりと沈黙を吸った後に綾はゆっくりと口を開いた。矢張りあんな処を家人に見られたのは恥ずかしいのだ ろう。
「いや…うん。ただ…綾の悪巫山戯を許して欲しい、とだけ」
それを聞いて彼女は声を上げて然も滑稽だと言わんばかりに嗤う。
「妹と従弟のあんな処見ておいて何が悪巫山戯よ。私たちもう結婚も出来るのに、ね」
彼女の語っていることが法的なことを示すことではないことは知れた。漱は肯くことが出来なかった。

 季節は安易に廻る。
文月はすぐに遣って来た。漱はいつもより幾分早く眼が覚めた。長雨のために相変わらず、屋敷の中は薄暗く て静かだった。
その音で身を起こした。
廊下を注意深く更に静けさに慎しみを重ねて、歩む、音。微かな音だった。
静かな跫音は漱の前を過ぎ、屋敷のずっと奥を辿る。
其処は――――――綾の室であろうか、停止した。
漱はゆっくりと行動した。
屋敷の奥のずっと奥に踏み入る。其処が深淵だと知っていた。
その唐紙襖を引く。
其処に在るのが、理一だ、と覚る。
薄く覗く。
 床の脇に男が居た。早朝であるのに髪を撫でつけ、衣服に乱れは無い。音のするようにアイロンの当てられた 襯衣だ。
床の中には少女が居た。其処が朝の寝床であるにも関わらず、色が鮮やかだった。紅い絞り縮緬。あの日着た振 袖だった。
男は黙った侭、少女の衣を剥いだ。
異常な青白い膚が覗く。肉の薄い肩。鎖骨が浮き貧相な乳房。
少女は男を薄い眼差しでただ凝視し、男は無関心に少女を扱う。
胸を弄る手の乾いた動きに少女の顔が次第次第に陶然とする。
ただただ茫然とその光景を見遣っていた。何が行われているのかさえ解からなかった。
それが診察だと理解したのは、男が少女の着物を直しているときだった。
少女がじっと男の大きな手を見詰めている。
物音一つ無く、声の一音も無く恙無く進行したそれを思い巡らせて漸く診察であることを覚ったのだ。静か過ぎ る光景。
不意に、少女が視線を動かした。
口は微笑に歪んでいた。
視線は彷徨うことは無かった。まっすぐに持ち上げられた。そして薄く開いた其処へ向った。
隙間から覗き見る闖入者を捉えた。

少女は知っていたのだ。

闖入者は其処から逃げ去る。
少女は、綾は、知っていたのだ。
はじめから、漱が、覗いていたことを。
彼女の嫣然とした蜘蛛の様な笑み。張り巡らせた巣の真中でじっと待つあの蜘蛛に似た、微笑。
漱の鼓動は速い。
耳の後ろが爆発しように鳴り響いていた。
あの少女は以前にあんな顔をしたであろうか―――――――
彼女は変わってしまった。
あんな娘では無かった。あんな人を絡み獲る様な笑みを見せるような顔をみせる娘では無かった。
胸の鼓動はそれでも鳴り響くことを止めず、
彼を飲み込み、
彼を強かに、
烈しく、
苛む。

 相似は大広間で各々本を読んでいた。少女は寝転がり、少年は大きな柱に背を任せて思い思いの速度で頁を捲 る。だが漱は一向に頁が進まなかった。
文字を追えどそれを脳が処理しようとはしないのだ。
……同じ空間に綾が居るからだ。
彼女はあの朝に纏わる全てを無視した。漱の怪訝な様子さえ無視する。故に漱も無視するほかなかった。
二つの人間が同じ空間に居るとは思われないほど室内は静まり返っていた。
自分の呼吸さえ意識し出すと煩わしく感じられる。歩くことを考え、遂には歩けなくなった仙人の話を思い出し た。
すると廊下から声が掛かった。
祖父の生前からこの家を世話していた槌谷と言う年配の女性である。古びた図案の前垂れをしていた。

「嬢さま、」

槌谷が綾を呼んだ。だが綾は返事さえせず寝転がって黙々と本を読んだ。何となく悪い気にさせられた漱が代 わって返事をして唐紙を開けた。

「此処にいらっしゃったんですか。探しましたよ」

この大広間で遊ぶことは祖父から厳格に禁じられていた。だが祖父の亡き今、この屋敷は綾の意に適わないこと などなかった。
槌谷は顔に深い皺を刻んで笑っていた。

「嬢さま。お客さんです」

「誰、」

綾は寝転がったまま微動だにせず短く的確に問い返した。槌谷は困ったように顔を顰めた。

「………丘沢先生です」

丘沢とは初めて聞く姓であった。恐らく此の旧町の人間ではないのだろう。綾はすっと立ち上がる。そして槌谷を見た。
「丘沢先生は何処にいらっしゃるの?」
いつもに増して綾の口調は丁寧で、冷たかった。
「玄関に」
「そう。結構です」
何が結構なのか漱には皆目解からなかった。綾の背を見詰めていると彼女は優雅に振り返った。そして権高に 美しく微笑して「一緒にいらっしゃい」と命令した。
 玄関には女性が立っていた。
背は漱と然程変わりは無い。二十代前半の小柄な女性である。長い髪を後頭部で引詰めて白い襯衣に草色の長 いスカァトを履いていた。
気の優しい倹やかな女性であった。
丘沢と言う女性の前に立つと綾は蔑むように笑んだ。
「何をしにらっしたの。兄さんなら未だ戻ってないくらいご存知でしょう?」
棘の在る綾の言葉に丘沢に居た堪れない表情が浮かんだ。
綾は白い貌を俄かに上気させ、軽く汗を滲ませた。
「帰って下さい」
「あの…あのね、綾さん、」
丘沢に名を呼ばれると、綾の透い額に血管が幾筋か浮かび上がった。情念が燃え立っているように見えた。
そしてそんな綾は言いようも無く―――――――美しかった。
「馴れ馴れしく呼ばないでっ」
眸は丘沢を捉え、強い眼光を放った。綾の激昂に丘沢は容易く怯んだ。
「綾…間人さん。私は理一さんじゃなくて、貴女に会いに来たの。話し合いましょう?」
「私は貴女と話したくないわ。出て行きなさいよ。早くっ。貴女に此の家にいて欲しくないの!」
此の屋敷が綾の領域である限り、此の女性は強くなれることは無いのだ。綾はあくまでも強硬な姿勢を崩さな い。
丘沢は半泣きの表情で出て行く。漱は綾の行動を異様な感覚を持って見詰めていた。
 綾は大切に過保護に育てられたためか、確かに我が強く、言ってしまえば我侭な娘であった。天真爛漫に育っ た。此の家にいる限り彼女の思うようにならないことは無かったのだ。遊び相手である漱が学校を長期欠席し てまで此処に在るように。
だけれど人を毛嫌いすることは無かった。未だ嘗て。
もっともそれも昨夏までの話しだ。
綾は昨夏に変わってしまった。昨年の夏には祖父が死んでいる。祖父が亡くなって綾には何があったのか。
「漱」
綾は漱を呼んだ。
「あ、あの女性は誰?」
漱が問うと綾は静かに哂った。侮蔑するように。
「あの人は兄さんの婚約者よ」
「理一にいさん、結婚するの?」
そんな話しは初耳である。
漱の驚いた様子に綾は再び笑う。
「ええ、そうらしいわね」
妹であるのに、まるで部外者のような口振りである。漱とは違い、実の妹であるというのに。
「そうらしいって…君のにいさんだろう?」
綾は艶やかに不思議に微笑んだ。絵画が目の前で動き出したようで僅かな戦慄を覚える。
「でもね、兄さんは結婚しないわよ」
優しく微笑む。
「何故、」
「あの人は此の家の人間だもの。お父さんがあの人の母親を獲れなかったように、あの人も丘沢を獲ることは出 来ないの」
兄を「あの人」と他人のように言う。
漱には綾の言っていることが、彼女が何を言おうとしているのかが、解からなかった。
間人の女は恐い
そう言ったのは誰だったか
俄かに漠然と不安が満たした。
「あ…ああ。そう。…にいさんと綾は余り似ていないけれど、伯父さんとにいさんは能く似ているね……」
自分が何を言っているのか解からなかった。
「ええ、よく似ているわ。実際、気味が悪い程」
少女はそれきり黙ってしまった。
だから漱も黙るほか無かった。
伯父と従兄は能く似ていた。また綾と伯母も気味が悪い程似ているのだ。容姿も声も仕草までも。
それと気が着いたとき、漱は一瞬うそ寒くなることを禁じ得なかった。
 漱の部屋へ赴いた。再び綾は寝転がる。
槌谷は既に帰ってしまったのだろうか。此の屋敷内に二人以外の気配は感じ取れなかった。二人が黙ると本当に 静かに成る。
静寂を言うより静謐を言うほうが好い。
そして静謐は外界の雨音だけを伝えていた。
屋敷のうちに静謐と芳醇な雨音が満ち満ちて、漱は俄かに酔った。
「漱、ラジオを着けて頂戴」
綾がぽつりと口を開く。此の部屋の片隅にはラジヲがあった。漱は自室であったのに其処にラジオがあるなぞ 知らずに驚いた。
ラジオは重く埃を被っていた。
それでも電源を入れれば多くの雑音に混じって人の声が朧げに聞こえていた。どうやら報じているのは気象のこ  とであるらしい。

 梅雨明けが間近であるらしい。
 漱はただ茫洋と聞いた。
 障子に目を転じ雨音を意識的に聴くように耳を澄ます。ラジヲの音は次第次第に意識から疎外され、雨音だけ が残った。
 瓦屋根を打つ雨音。軒を伝い落ち砌に響く雨滴。潦が雨を弾く音。無数の音が雨の音を作り出していた。

「ねえ、漱」

 綾の声で漱は現に引き戻された。  雑音ばかりのラジヲの音が聴かれた。  漱は綾を見て頸を傾げた。

「あなた丘沢のことを如何思ったかしら」

 綾の白い指が伸びてラジオの電源を落とす。

「何、突然」

 綾はゆっくりと起き上がった。着物の裾が乱れて白い臑が覗いた。
 そして漱に近付く。
 大きな眸が漱を捉えた。
 濡れた漆黒の眸子。
 今にも零れ落ちそうなほど。
 しかしその眸に捉えられた時、漱は凍るようだった。
 まるで蛇。
 蛇が獲物を眼前に置いたときの目だと感じた。

「―――――――どうしたの、漱」

 綾が口端を持ち上げて笑う。
 わらっている。
 わらっている…………
 嗤っている――――――
 綾は腕を伸ばして漱の頬に触れた。

「脅えているの?」

 大丈夫、と囁き綾は笑う。

 其の侭腕は背に廻る。
 少女の白い項が覗いた。
 滑らかな膚。

 美しかった

 その刹那触れたいと希む。漱の深い部位が。
 そして綾は知っているのだ。
 漱がそれに触りたくて身悶えていることを。

 だから嗤っているのだ―――――――
 嫣然とした蜘蛛のような笑み。今にも自分の吐き出す絲に搦めとろうとする微笑。

 あの朝、漱が覗いていたことを知って嗤ったように――――――

 「いらっしゃい」

 言葉には魂が宿っているのだと漱は確信する。魂は強い力を持つ。言葉は人と人を繋ぐ方法。人は言葉を介すことで漸く意思の伝達を図る。
 人と人が意思を僅かにも伝え得る奇跡。
 それ故に言葉は人を捉える。
 搦め摂り苛ませる。

 従姉の優しい声。それは逆らうことを赦さない。
 言葉は人を捉える。搦め摂り、締め付け苛ませる。

 手を引かれる。
 感じる浮遊感。
 己に意思は無くただ彼女のその言葉に縛られていた。捉えていた。搦め摂られ、締め付け、強かに苛む。
 意識は混濁として、気質は朦朧と。
 幽世(かくりよ)を彷徨った。
 その霧の世界から覚めると綾の部屋にいた。

 綾は背後にいて、蠢いていた。
 視界の端の綾の鏡台が覗き、それを見遣った。

「動かないで!」

 叱咤の声が飛ぶ。何だか寝て起きたばかりのような茫漠とした微睡が躰を覆っていて、鏡に映った自分をその瞬間は疑問に思わなかった。
 真赤な衣。
 蝶と大輪の花が優しい情事のように淫らに描かれた着物。それはいつかの朝、綾が着ていたものだった。
 唇も紅に彩られて、道で春を販ぐ女のようだった。

「綺麗よ、漱」

 綾は美しい。

「嬢さまも嘸かし美しく成られよう」

 漆黒の断髪。麗しい濡れた眸。瞳に影を落とす長い睫毛。象牙のような滑らかな膚。
 唇はただ赤く、其処から紡がれる言葉に漱が逆らうことは所詮不可能なのだ。
 綾が着ているものは喪服だった。
 鈍く黒いそれは昨夏に見たものだった。
 祖父の葬儀に纏ったものだ。
  
  あの夏の日の綾は慄然と美しかった。
 灼熱の蝉時雨の中、黒く焦がされた影は短い。長い髪を纏めて、奇跡的なまでに白い項を惜し気も無く夏の陽 光に曝す。
 両手を前に組み、背筋を伸ばし、喪主の兄から離れて立っていた。
 祖父の亡骸を前に実に冷淡な表情で無言だった。
 綾は一度も泪を流さなかった。

「気丈な娘や…」

 陰口を敲く親族たちを一瞥もしなかった。

「本当に間人の女は恐い」

「身内の死に泪も見せん」

 囁く中傷と嘲笑に歪んだ、皆、彼女を求めているように見えた。
 けれど今はあの長い髪を落とし凛と嬌めかしい。


「…綺麗…」

 漱が呟き、そうすることが当然のように二人は唇を寄せた。綾は漱の膝に跨る。裾は乱れ、腿までも露わ に。
 眼を絲のように細め互いを見詰め遣る。

「や…辞めろっっ…」

 割って入った奇妙な叫び声に揃って目線だけを向けた。
 廊下に面した唐紙襖が開き、理一が居た。
 彼の顔色は尋常でなく蒼い。
 漱は初めて理一の存在に気付いた。思わず唇を離し、綾の顔を見たが、彼女は紅を刷いた口唇を優美に緩め ているだけだった。
 彼は何時から見ていたのだろう。不意に高揚する。
 躰にじっとりとした汗が浮かぶ。

「何かしら、兄さん」

 綾の唇が優美に歪んだ。

「お願いだ…辞めてくれ…」

 咽喉からから絞り出される苦しい声。漱の背後に立つ理一を覗いた。彼は震え、今にも崩壊しそうに蒼かっ た。

「裏切ったのはあなたじゃない」

 綾が嗤う。

「僕は…彼女を…あ、あああああ愛しているんだ……」

 弱弱しく力無く理一は戦慄いた。

「嘘吐き」

 綾が嗤う。

「そんなの欺瞞だわ。にいさん」

 嗤いながら綾は漱に再び口付けをする。

「漱、私を抱く?」

 膝の上で綾は漱を見下ろす。そして俄かに立ち上がり手際良く帯を解く。黒い長着の前を開いた。裾が音を発てて畳に落ち、 綾の白い皮膚が露出する。薄い皮膚は破れやすそうだった。
 衣服の上からはその存在さえ忘れ去れた幼い乳房が毀れた。
 乳房には赤や青の血管が薄らと浮かび上がり、その先端は綺麗な色をしていた。

「抱きたい?」

 漱はその下を見ることを拒否したかった。
 その腹部を。
 けれども逃れることも出来ない。

 膨らんだ、胎――――――

 耳の後ろの血管が音を発てて血液を巡回させ、全てを遮断しようとしていた。
 華奢な体形に似つかわしくない、あからさまに膨らんだ下腹部。
 草紙に見る、餓鬼にも似た。
 歯の根が震え出した。

 

 

「素敵でしょう?兄さんと私の胎児よ」

 

 

 漱は自分の口端が吊り上って痙攣していることを感じた。何だか笑いだしそうだった。 此の胎には子宮があり、命があるのだ。
 理一と綾で構成された命が。
 漱は膝を着き、震える手で従姉の胎に触れた。そして頬を寄せる。その緩慢な動きに綾の手が漱の頭部を抱き寄せた。

 

「あああああ、あ綾ああああああ」

 


理一の妹を呼ぶ切実な声を、漱は姿見越しに彼を見る。姿身には肩甲骨の浮き上がった綾の背が映し出されて いた。
理一の膝が崩れた。
彼は――――――――凄絶な顔で泣いていた。
「兄さんが悪いのよ。他の女なんか見るから。私を犯した畜生(ひとでなし)のくせに、人並みに生きようとするから」
綾は漱の額に口付けをする。舐める。
彼女の眸は異様な光を湛え、訳も無く恐ろしく、また美しかった。

「私を裏切るから」

けれど漱は既に此の少女に熱り、苦しいほど男としての反応を見せて、綾の脚に触れていた。
綾は漱に丁寧に接吻を繰り返す。
 そして漱は綾の背後に在る姿見越しに理一の姿を見た。
常に表情の無い顔に苦渋の色を浮かべて更に蒼い。彼は妹に犯されて行く血の繋がらない従弟を見て何を感じて いるのだろうか。
そう思うと不意に口が笑いの形に歪む。
姿見に映る
嗤った漱と
泣き顔の理一――――――

「や、やぁ…辞めて……。辞めてくれえええええ」

従兄が悲痛に啼いた。

「何が辞めてくれなの、兄さん。此の胎は貴方の児よ」

膨らんだ胎をそっと撫でる。
漱はその様子に見蕩れ、綾の臍に唇を寄せた。

「貴方が希むから、あの爺も殺してあげたのに」

爺とは祖父のことであろうか。漱は微酔に揺蕩う。

「ややややや…やぁ辞めてくれぇ………」

嗚咽が幾度も声を阻んでいた。

「私を獲らない貴方が悪いのよ」

綾が嗤った。

「辞めてくれ…」

理一の口から弱弱しい絶叫が迸った。

 

 

 

 其処は血の海原だった
畳も壁も唐紙も脱ぎ捨てられた衣服も、真赤に染め上げられていた。
そして、漱も理一も血に濡れていた。
――――――綾はいない
綾は此処にはいなかった。
代わりに綾ではなく、嘗て綾であったと言う胎を引き裂かれた骸が一体、
落ちていた。
漱は壁に寄りかかっていた。
薄化粧を施され、朱い襦袢を纏い、大きな木偶のように眼も虚ろと、其処に座っていた。
漱は背を見詰めている。
理一の背中である。
肉付きの薄い痩身を包む襯衣。記憶の中では彼の着ているシャツも白かったはずだ。
だが今彼が着ているものは峻烈な朱だった。彼も骸を前に弛緩して座り込んでいた。
彼の向こうに足袋を履いた小さな足と白い臑が覗いていた。
漱はただその情景を見遣っていた。
理一の向こうに存在するそれを、ただ耄と見詰めていた。
足袋の他は一糸纏わぬ、その姿。
顔は嗤っていた。
否、恐怖なのだろうか。
ただ…酷く醜く歪んでいた。
手は大きく投げ出され、胎だけが縦横無尽に裂かれ、ぐちゃぐちゃ、だった。
「……りい……ち………」
漱は理一の名を読んだ。
沈黙は長く続いた。
それは沈黙と言うよりも無音。其処に音は存在せずただ己の血液の循環と神経系の音のみが生きていることを辛 うじて報せていた。
自分が意識出来れば出来るほど綾を凝視めた。
「ふ…復讐だった………」
理一が呟く。 それは漱に語り掛けるより独語に近い。
「此処に来たのは、」
此処とは―――――間人を指すのだ、と直感する。
理一には母方に親しい親族があったと聞く。だが理一は間人に来たのだ。
「ははははは間人は憎しみの象徴だった」
瞬きさえも緩慢に感じた。
すべてがゆっくりと流れていた。唾液が咽喉を伝う様までも、緩やかに感じた。
「母は…母さんは…間人も母を獲ることで出来なかった父さんも…全て全て憎んで死んだ。入婿の妾腹だった僕 が此の屋敷でどれだけ恐かったか解かるかい?」
理一が笑ったような気がした。だが漱に見えるのは彼の背ばかりである。
「それでも義母が生きている間は良かったんだ。義母は僕が錯覚するほどに優しかった…。彼女は、心底あの莫 迦な男を愛して、その莫迦な男から愛されることを当然として、母さんなんか歯牙にも掛けなかったんだ。…勿 論僕もね。義母は僕を愛してくれたわけじゃない。障碍とも考えなかっただけなんだよ。そう悟った時、僕は喩 えようもなく――――――」
――――――――恐かったのだ
いつに無く饒舌な従兄。 不気味だった。

「間人の女は恐い」

そういったのは茶舗の老婆だ。彼女は知っていたのだろうか。
「義母が死ぬと義祖父は…あの爺は…僕を憎しむことを隠そうとはしなかった。それがどれだけ恐いか……。僕 の頭の中には復讐しかなかった。大学を出て義祖父が死んだと聞いて僕は嬉しかったよ」
綾は理一を好きだったのだろうか―――――――
「此の屋敷に帰ってきて、綾と逢うことで僕は間人の人間の恐さを真実知ったよ。父が、父さんが母さんを裏切 ったことを漸く理解出来た。――――――綾は綺麗な少女だった。純粋だった。あれは義母に能く似てい る……」
兄さんの為に殺してあげたのよ。
一緒に暮らしましょう。
「彼女は僕を欲して、僕に欲されることを…当然と考えるんだ。そして僕が義祖父を憎んでいることを知ると最 も、最も簡単に…」
祖父を殺した―――――――
「だから、だから、だから、だから、僕は、あああああ綾を―――――――犯した」
理一が振り返った。
彼の表情は今までに無く優しくてとても優しくて、穏やかだった。


  雨の音が心なしか強くなった


「そして綾が子供を孕んだと嬉しそうに微笑んだ時僕はどうしようもなく寒かった。恐かった。恐くて……逃げ 出したかった……。彼女の懐いていた家庭教師に求婚したんだ」
綾は急変した。
――――――――僕は恐かったんだ
虚ろに呟いて理一は真っ直ぐ漱を見詰めた。
額も、瞼も、眼球も、鼻も、頬も、唇も、頤も、頸も、肩も、鎖骨も、腹部も、腿も、臑も、足も、血に塗れていた。
異様な風体だった。
「漱くん。帰りなさい。もう…帰りなさい。一刻も早く―――――――」

理一が泣いているように見えた。
「そして、君は何も知らない」
だが定かでは無い。
何故なら、漱の視界は既に滲んでいたからだ。
「……いいね、」
外界では既に雨が上がっていた。
けれど空は陰鬱で雲は低く落ち着き薄らと暗くて、今にも泣き出しそうだった。
気が着くと坂下の門前にいた。茶舗があった。田端屋の様子が奇妙しい。
黒い背広を着た男たちが忙しなく行き来している。
 どうやら茶舗の主人が亡くなったらしい。
不図坂上を臨んだ。
木々に覆われた坂上の間人家。

「間人の女は恐い」

そういったのは田端屋の主人だ。
彼女もまた逝ったのだ。
 此の薄暗い中、坂上だけが朱い。
あれは情念だ。
朱い着物。
血の色――――――――
果たして綾は理一を愛したのか。
祖父を殺してしまえる程に。祖父を殺してまで理一を手にしたいと希んでしたのだろうか。
昨夏から着ていた黒い着物。
あれは喪服だと感じていた。
だが―――――――違う
あれは欲した男にその犯した罪を顕示していたのだ。高らかに。誇らかに。 

「貴方が希むから…あの爺も殺してあげたのに」

甘やかな微笑。拒むことは赦されない。
張り巡らされた蜘蛛の糸。
捕らえされる―――――――
坂下から燃える焔を見詰めていた。
燃えている。
炎えている。
轟轟と
囂囂と
業業と
音を発てて。
赤々とあの屋敷に押し込められていた、息を潜めていた情念が、火を点したのだ。
女が、嗤っている―――――――
耳を澄まして音を聞いた。そしてゆっくりと漱は坂上に背を向け歩み出す。
忘れるべきなのだ、と。彼が言ったように。

空を見上げた。

不図此の雲が霽れれば夏が訪うのだろうと、ラジオの声を思い出した。 
 

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