project 88888
もう恐らくいらしゃっていないことはりょうかいしていますが、
以前88888でリクエストを頂いたぽにゅさま。
緒崎×関口が出来上がりました。映画アモーレスペロスのパロディです。
もし、宜しければ、お納めくださいませ。
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Amores Perros
犬を飼いたいのです。
妻のその言葉と冷りと神経に触った。彼女が何故犬を飼いたがっているか。知っている。子供を作ろうともしない夫の意思を責めているのだ、と関口は咄嗟に思ったのだった。
出来ないわけではないのかも知れない。ただ自分と同じものが生み出されていく、再生産されて行く恐怖と嫌悪に抗えない。
そう―――関口巽はもう数ヶ月も妻の軀に触れていなかったのだ。
彼女はそれを責めている。あれほど快活に笑う女であるのに、今の彼女はただ暗く、眼窩も深く落ち窪み、膚も瘡瘡に乾いているようにも見えた。
己の鄙俗らしさなぞ、此の貪欲に軀の底に広がる欲望にずっとずっと付き合ってきたのだ。飼いならすことなど出来ない。ただ宥めすかし続けてきた。彼女の柔らかな身に包まれさえすれば、堅くなりそして吐き出すことなど造作も無い。
ただ、ただ其処に行き着く、その前で、彼女の身を抱こうとするその寸前で気持ちが萎むのを知っている。
夫の溜息に、妻は怯えた。夫婦である以上、子供を望むことも性交を望むことも何も不自然ではない。
だけれど関口は妻に触れることさえ出来なかった。
申し訳ないとも思うのだ。
これまで、彼女の笑みに幾度救われているのか解らない。その献身と、彼女の愛情に如何程、生かされているのか。けれど彼女の夜着へ手を伸ばすそれさえ出来ないでいる。
「すまない」
そう小さく洩らした声に、嗚咽が重なった。いっそ不能と詰られることも覚悟していた。そしてそれを理由に離縁を申し入れられることも。生憎かつかつの生活に夫婦間に情交さえないのだからそれも致し方なからぬところであろうに、彼女は次ぐ日には相変わらず快活に笑い食事を用意し、関口の床を上げて家事に勤しんだ。
彼女の開けた窓の明るい陽の下で見る彼女は未だ若く、離縁しても再び嫁ぐことも可能だろうと、関口は思った。目を瞑れば、彼女がもっと甲斐性のある男と人生を共にする姿が想起された。こんな不安定な、不安定故に妻へ何も出来ぬ男ではなく。
「タツさん、」
呼ばれて目を開く。
「先刻起きたばかりでしょうに、寝ないで下さい」
朝食にしましょう、と笑い掛けられる。昨日隣家から貰ったと言う卵を甘く焼き、そして磯の香りのする濃緑の海苔と葱の味噌汁が卓子に並び、飯を盛られた茶碗を差し出された。少しして、薄黄色い番茶も渡される。緩慢と関口は朝食に手を出した。
これが日常だ。
恐らく、関口巽と言う男には掛け替えのない。もっとも、最上の日常なのだ。箸で口に物を放りこんでも味もしないのに。
何日も床を上げていないだろう饐えた臭いさえする敷布の上で身を捩る。じんじんと痛い。きっと腫れ上がっているだろう。ズボン吊りの金具を胸部に取り付けられた儘、関口は肩で息をしていた。
時折男が、金具を捻る。その度に声を上げてしまうのだが、余りにも煩瑣だと口の中へ先刻吐瀉物を拭った手拭いを裂いて口の中へ詰め込まれていた。
口の中の残る饐えた胃液と精液に上げそうになるのだが、その度に殴られる。
散々腹を殴られて、腹の中に詰め込まれていた殆ど消化し切った物体を吐き出したのは、数時間前の出来事だ。
「女房は健気じゃねえか。お前なんかに飯を喰わせてくれるんだ」
猿公が、と囁かれて腹を蹴られる。蹴られて、のた打ち廻る。
「別れねぇのが不思議だな。賢夫人て奴か」
こんなよがり捲る男に。
吐き出すことに焼かれた食道に蓖麻子油を流し込まれる。
「自分の糞を舐めさせられたく無かったら、綺麗にしろよ」
と碗に注がれた蓖麻子油に、俄かに下半身が熱くなる。これから先何が起こるのか関口は知っている。そして排泄を終えた後孔に同じくそれを塗りこまれることも。
塗りこまれるのは、関口の負担を和らげることが目的ではない。
がちがちの狭隘な肉の狭間、しかも男の孔に自身のそれを捻じ込むことが厭なのだと云った。緩いものはそれこそ論外だが、男の常には糞便を垂れ流す孔に噛まれるのは御免だと。
腸が厭な音を上げ始める。
そしてそれが関口だけでなく男の耳に届く程に成ると、男は口端を上げた。口の中に詰めた手拭いを取り出す。
蓖麻子油と唾液と吐瀉物に濡れてぬちゃりと音を上げて手拭いは褪せた畳の上に落ちた。
そして部屋の端に置かれた鏡台の鏡台に付属する踏み台程度の物入れに腰を下ろし覆いを掛けられた鏡に背を凭れた。
関口は緩慢に起き上がる。拡げられた腿の間に膝を尽き、男のズボンの前を施す。
僅かに反応したものを見出すと、関口は男の下着を脣と歯で押し下げて、咥えた。手も指も使い、舐める。陰嚢をも揉みしだき、鈴口を撫ぜながら陰茎の根本を舐めて吸う。
指の腹に先走りが滲んで指と裏筋に流れ、舌を伸ばしてそれを舐めると、雁先を咥え込む。丹念に。
「歯、立てんなよ…殴られたくなかったらな、」
口の中が腫れていて、物を食んでも味覚しなくなって一週間になる。痛くて堪らないのだ。
流石にこれ以上腫れて、況して味がしないとなれば誰かに気付かれることもある。関口は勤めて丹念に吸い付くように舐めて、殴られることを避けることにした。
怖い。
殴られるもの、蹴られるもの。
けれど、人は痛みに馴れ、やがてより酷い刺激でなくては感じなくなる。耐性が着くのだ。
関口は身を持って知っていた。あの伊豆の時から。否、それ以前から、だ。ずっとずっと知っていたのだ。知っていて、閉じていた。
下肢が熱くなる。男性の性器を舐めて堅くなる。既にそれを不自然にも感じなくなっていた。男の肉塊で頬の内側を、咽喉の奥を、突かれるのは気持ちが好い。舌の上を滑るのも、吸い上げるもの。
腸が鳴る。額に汗が滲む。肩先が俄かに寒い。寒いのに、肛門が熱い。酷く熱い。ぼってりとした熱を持って躰が粟立つ。
これが蓖麻子油の覿面なのだ。
「おい、」
口の中で堅く大きくなったもの。
その怒張に悦に入っていると、顎を掴まれ、無理矢理腰を使った。そして口内から取り出すと、関口の鼻先目掛けて、吐き出した。
「あ…」
「出して来いよ、漏らすなよ。臭ぇから」
関口は白濁とした視界と胸にズボン吊りの飾りをつけたまま、臀肉に力を要れて半起ちの儘内股にそっと歩き出す。
便所で水のようなものを出して、浴室の風呂桶に溜められた水で臀部を洗う。指を中に入れて。
其処に指を宛がうだけで、吐息が漏れる。散々と使われ腫れていたが、最近は油も使い以前のように其処が傷付くことは少なくなっていた。
新宿の仕舞家と言えば聞こえはいいが、ただの廃屋を根城にし始めたのは極々一ヶ月前の話だった。木賃宿でも金は取られ、それが惜しくなったらしく、空家の軒先を借りていたらしいのだがいつまで経っても誰も顔を出さないので、塒としたらしい。
そしてその一番の理由が内湯があったことだと言った。
彼一人の場合は大概一人で湯屋に行くようなので何故内湯がその決め手になったのか、関口には知れなかった。何故なのかも思考しない。考えることが厭だった。
ただ身に与えられる痛みを味わい酔っていた。
何処か歪な複製作品であるところの赤井書房所有自動車の助手席で背を丸めた人は、窓の外を流れ行く景色を見遣っていた。
機嫌伺いに作家の家を訪問すれば、目を赤く張らした細君の姿があった。
常に快活で、ともすれば辛気臭く為りがちな家内を上手く取り仕切っている。此処を主催し、治めているのがまるで彼女であると思わせることに長けている。…否、今日この時まではそれが真実であると思っていたのだ。
目の縁が紅く重く腫れている。笑みの形に口角を上げる仕草が酷くぎこちなかった。
鳥口守彦の眉間が僅かに寄った。
「鳥口さん、すみません。今、主人は留守にしていまして」
声が掠れていた。
「中禅寺さん宅ですか」
口から出た言葉の偽りの深さに唾棄したいほどだった。
「ええ。……否、さあ…どうでしょう、」
逡巡を表す彼女の返答に鳥口は俄かに戸惑った。兎も角後ろ手に扉を閉ざす。 何があったのかを聞く訳にも行かず、ただ彼女の前で鳥口は立ち尽くした。
「締切だったのですか、」
掠れた声の儘雪絵は訊いた。
「あ、否。締切ではなく、あの…先生のご機嫌伺いに、」
雪絵が少し笑った。
「最近、机に向かっている時間も少なくて。申し訳無いと思ったのですが」
「あの、まあ、弊社で次刊を出すのには、もう少し資金繰りを良くしないと」
そう云うと雪絵が本当に笑ったように見えた。
「ご主人がいないのに上がり込む訳には行きませんね。お暇しましょうか、」
雪絵は緩々と頸を振った。
「態々お越し頂いたのに無碍にはできません」
上がっていらっしゃって。
雪絵は鳥口を家に上げた。安い茶だと云うことはすぐに知れた。それでも熱い湯に潜らせればそれなりに旨い。鳥口は冷めて不味くなるまえにそれを胃腑へ流し込む。雪絵の心ばかりをそれこそ無礙にはできなかった。旨い茶だとはお世辞にも言えなかったが、それでも他愛無い空虚な会話を繰り広げた。
そして不意に会話が途切れて、雪絵の眸が酷く空虚にみえた。
「どれくらい、いないのですか?」
「さあ…」少し微笑む。「数えても、仕方が無いじゃありませんか」
先刻から雪絵は笑みの形を崩さない。それが彼女を衛る鎧であるかのように。
「それほどに、」
いないのか―――
「中禅寺さんのお家とか、例えば神保町の」
探偵の処とか、と云い募ろうとして鳥口は言葉を止める。
「そうですね、訊ねてみればいいのかもしれませんね」
虚脱したような物言いだった。
関口が不意に何日か彼の家家に連泊することはまま無いことでは無かった。けれどそうではない、と細君の雪絵は云うのだ。
関口に浮気をする甲斐性は無い、と云ったのは古書肆であったが、誰もがそれに否は無かった。関口巽に甲斐性が無いのは共通理念であったし、実際彼に情を掛けようと云う女性などそう多いとは思われなかったのが、鳥口の正直な感想だった。
けれども。
同じ口で言を翻すことも鳥口は厭わない。
彼はどうにも或る人々に誘い掛ける色香がある。
惹きつける、嗜虐と云う―――――魅力を。
否、彼に対峙して、愛するか、殴りつけるかはそれぞれの反応だ。
そして、後者の人々を途轍もない引力で彼は引きつける。誘われるのだ。彼をそうしたらどれだけ快いのか、それを知りたい。その扉を開けたい。その先を見たい。
彼とその世界を味わい尽くしてしまいたい。
「鳥口くん?」
声を掛けられて、頸を巡らせれば何処か面窶れをした関口巽がいた。
「ここれは、先生っ!お久しぶりですね」
横で雪絵が立ちあがった。
「お茶を淹れましょうか、」
関口は肯く様子もなく、座り込もうと云うその腕を鳥口は関口の臀部が畳に着く前に掴まえた。
「少し車を流しに行きませんか?」
「え、」
「行きましょう、」
関口がぎこちなく肯いた。
雪絵の眸が背に注がれていることを感じる。漸く顕れた夫を先まで慰めていた男が攫って行くのだ。
彼女は恨むだろうか―――――。
車は滑らかに走っている。今日は調子が好いようだ。鳥口は横で背を丸めている関口を横目にしながら何も言えないでいる。
彼が何処にいたのか。何をしていたのか。雪絵との間で何が起こっているのか。訊きたいことは山のようにあるののに、会話の穂先さえ見付けだせない。
車から流れる外界を望む関口の以前見たよりも細くなった頸部に薄らと綾目に似たものが見える。
「造り物粧いて見えないか」
「何がですか?」
「人も時間も建物も」
関口と云う人物は中禅寺や榎木津のように浮世離れした為人では無く、云うなれば浮世に塗れた人で、こんな話をするとは思わなかった。
そして今はただ憔悴して見えた。
「雪絵さんも僕も造り物じゃありませんよ」
「そうだね…」
薄く笑って関口は座席に深く沈み込んだ。
「そんなことを云う心算は無いんだ。ただ、何もかもが造り物だったら、と思ったことがないかい?」
「その状況を想像して怖いと思ったことはありますけど、望んだことはありません」
「だろうね、僕もだよ」
その儘口を噤んで話さなくなった。車を走らせる間にやがて寝息が聞こえて、矢張り酷く疲れているのだと思ったその感触が決して間違えではなかったことを知った。彼の妻の許ではなくて適当な気兼ねも無い処に連れて行きたくなったのだ。規則正しい寝息を聞きながら車を走らせる。
関口が中禅寺にも榎木津にも何も云わずに、何かを抱えているのだけは解かっている。そしてそれに自分が関われないことも。いずれ襤褸襤褸になった関口と会う予感だけがあった。
犬を預かることになったと聞いたのはそれから一か月程後のことだった。
獣の臭気がする。新宿の深く掘った地下鉄道の主要幹線から少し外れた処に三十平米許りの広さを有した部屋がある。元々戦時中に軍部により掘られたそこは主都東京の地下世界に似つかわしく、混凝土と小さなタイルで装われていた。
犬の臭気が立ち込めていた。
吠える大小の声は、咽喉を鳴らし唸り上げ、やがて細ぼそる。
人間の囃し立て怒鳴る声、歓声をまた怒号が飛ぶ。
酷い臭いがする。
肉を喰った動物の息切れ。小さな犬の躯から湯気のように立ち上る汗。そして血の腥い臭気。腑分け時に内腑を開けたような臭いには前職の頃に馴染みがあるのだ。鼻を突く異臭。臓腑の臭いだ。
酷く生臭かった。
物影には大小の犬の弱った体躯があった。
中にはぴくりとも動かないものすらも存在した。
「どうだ?」
黄色い皮膚をした男が白眼の薄く充血した眼を向けた。
「負けた、」正直に云うと、黄色い歯を見せて笑う。
「またかよ。どうせなら犬連れてこいよ。犬。登録はコッチでやってやるからよう」
「犬を飼うだけの余裕がねえよ」
「そんなもん簡単だろう?盗んでくればいいんだ」
「盗む?」
「諾諾。簡単だろう?盗めばいいんだよ。デカくて人を殺しそうな眼をした闘争心の高そうな犬を。勝ち上がれば、其儘飼えばいいし。負ければ道に転がして置けばいいんだ」
「そんなもんかよ」
「そんなもんだろ、犬っころなんざ」
また黄色い歯を見せて笑う。長らく日の許に出ていないことを自ずと知らせていた。
負けは死を意味する。
此処は地下世界の賭博場だった。賭博の品は犬。闘犬だ。地上世界では死ぬところまではさせることはないが、地下では命の決着が付くまで行われる。
無惨に噛み殺されるのを、誰もが声を上げながら注視している。昂揚と、躰を熱くして歓声を上げている。勝利の狂喜に高められて、犬の生き死にに多額の金を掛ける。
よって、皆の掛け声は
「殺せ、殺せっ!」
人々は口吻泡を飛ばすのだ。
緒崎は自分の変化を思い知っていた。
あれほど、関口の事が許せなかった日々がまるで白い煙幕の向こうにあるように感じる。白濁とした膜の向こうに。
人殺しと罵ったあの日々はそう遠いことではないのに。
人の死も、人殺しも許せなかった。
そして関口も。
ただ許せ無かったのだ。
だのに警察を辞めて、此の東京に関口を求めた頃からは、まるで坂を転がるようだった。
犬の死を憐れんだのは、いつのことだっただろう。
転がり堕ちる。
多額の金と引き替えに犬の死を歓ぶ自分を知った。相手の犬がなかなか死なないことに舌打ちをする。苛立つ。
赤毛を掻き分けた鋭利な歯が皮膚を突き抜け血を流しす。そして犬は断末のような狂気染みた鳴き声を望むようになった。
負けた日の夜には関口が欲しかった。関口の歯を折っていつでも咥えさせたかった。たぶん、関口は肯く筈だ。従順だった。あの檻の中の儘に、関口は従う。呼び出せば嫌はなく現れる。そてあの檻の続きを受け入れる。
従順だった。
関口が緒崎に求めたことは、たった一つだった。
目を隠して欲しい、と。
「帰るのか?」
此の闘犬の胴本である男が緒崎に声を掛けた。そしてまたも脂に黄色く染まった歯を見せて「犬用意しろよ、勝たせてやるぜ」と耳打ちした。
獣の、犬の臭気が立ち籠めている。
それは噎せ返るよう人の欲と云う死臭だった。
目隠しをして、背を撓らせている。往復運動に躰が揺れて咽喉が灼ける。吐精感が極まり、ぐっと大きくなり後ろを締め付け、其処に彼の存在を感じる。目隠しの内側で瞑目に精感を高みまで駆け上る。躰が震えて達した。
髪を掴みあげられ、項の辺りに鼻先が押し付けられるのを感じる。
「犬の臭いがする」
低い声が耳朶に触れる。
「い…ぬ、」
応える声が掠れて熱を帯びていた。
「飼ったのか?」
声が僅かに苛立って聞こえた。
「いいえ、」
口を散々使った下顎の筋肉が僅かに弛緩しているのを感じる。舌が悖るのだ。
犬を飼いたいと妻が云ったのは何カ月前の話だっただろうか。
その時に無碍に突き放したのは彼女が本当に何を求めているのか知っていたからだ。
けれども、先日彼女は云い難そうに隣家から犬を預かって欲しいと頼まれたと口にした。隣家の主は暫し故郷に帰ると云う話だった。長い距離の列車移動に犬は連れて行けず、況して何処かに離すのも然るべき場所で処分をされるのも忍びないと聞かされれば、それを諾と云う程のなにも関口には無かった。
諾の返事を受けて翌日にも雪絵が連れてきたのは、中型犬の、既に成犬であった
耳の三角に立った赤毛の犬だ。目付きが勇敢で眸が澄んで見える。豊かに上向きに巻いた尻尾姿は精悍だった。短い期間ではあるけれど念願の犬を飼えたことにとても嬉しそうに見えた。
彼の住処は家の上げることも出来ないので、犬小屋ごと借りてきて、敷地内の腰辺りまでの壁際に設置された。
人に慣れているのか、余り鳴くこともなく人が近付く以外は眠っているか大人しく一頭で遊んでいるようだった。
「大人しい犬だね、」
朝食の中で雪絵に云うと小さな円卓に茶を運びながら元々狩猟犬なのですって、と答えた。
「狩猟犬?」
「ええ。人に従順で闘争心の高い犬なんだそうですよ。猟師と一緒に山の中に入って獲物を追うんだそうですから」
激しく鳴くような犬では獲物にすら近付けないだろう。
「マタギが連れているような犬なんだね」
「お隣さんの奥さんはお祖父さまがマタギだったと云ってましたよ。だからきっとその血筋なんでしょう」
雪絵は嬉しそうに語った。
日中働きに行く日もあるので手の掛る子犬でなくて良かったと云ったのは本心だろう。関口が積極的に犬小屋に近付くこともないので、犬の面倒は雪絵が見ていることになる。実際、関口自身、家の敷地内に犬がいることを忘れていることすらあるのだ。
犬の臭いがする、と云われて関口は不意に自分の体臭を嗅ごうと鼻を腕の辺りに寄せた。自分で自分の纏う臭いは解からないものだ。
貸せよ、と云う言葉を緒崎は飲み込んだ。ただ関口の物は自分のものだと思った。
関口が外出から戻ると、玄関の三和土に血に染まった犬の躰が横たえられていた。思わず後ろを振り返る。何の筋だ、と思っていた。道路から此処まで続く黒い筋。引きずった痕跡。
それが、大きな体躯をした犬を引き摺った、そしてその身から落ちた血によるものだと、関口は漸く理解した。
思わず躰が震える。
屈みこんで、犬の鼻先へ手を翳す。
白い毛には未だぬるぬるとした血が付着している。
だけれど、手に掛かる呼吸は酷く弱くて―――
「ゆ…ゆき…え」
未だ、働きに出ている時間だろうか?
兎も角、関口は犬の躰を跨いで、家内へ上がった。
どうしたらよいのだろう。あの犬は隣家からの預かりものでもあるのだ。生憎、家畜医には心当たりがない。強いて言うならば、医師の里村だろうか。此処へ来てもらうのが良いかもしれない。
不意に、家内の、その閉じられた襖の向こうに気配があることに気が付いた。
嫌な予感がした―――
元来、然程勘の良い方ではない。
だけれど。
関口は知らず、咽喉を嚥下する音が酷く大きな音を立てたような気がした。
襖に触れる。その唐紙に紅い指紋が付着した。
両手を襖の縁に掛けると、その向こうから、声が…否呼吸が聞こえていた。否、嬌声だ。喘ぐ、声だった。
棒立ちに関口は静かに襖を開いた。
「やあ、あ、やああ……やぁ…やめっ…てぇ」
泣き声だった。
妻の―――
畳みに腹ばいになった妻の躰からは、衣服が剥ぎ取られていた。引き千切られて、切り刻まれていた。そしてその妻に圧し掛かっているのは
襖が開いたことに、妻は気付いたようだった。跫を其処に見た。そして草臥れたズボンとシャツを目線が辿り。
悲鳴。
関口は襖を更に開けた。
そしてその儘尻もちを着いた。
「やめてぇっやめでぇっっっだづざん見ないでぇぇぇぇぇ」
白い乳房がむき出しだった。スカートが腰で蟠っている。叫びすぎて嗄れた声を更に無理矢理上げた。鼻の両の孔からも液体が流れていた。
その間も、妻の背後の男は律動を刻む。見覚えのある、否、其処に居るのは、
緒崎だった―――
関口を見ると、額に汗を浮かべた雄崎が脣を引き攣らせた。笑ったのかもしれない。
右手を妻の髪に掛けると、顔を上げさせた。
泣いて叫んで、顔を涎と涙に塗れさせた妻雪絵が其処に居た。
関口は両手を背後に着いて、腰を抜かすように、身動きすら取れなかった。
「みないでぇみないでぇ……あなだぁ」
その声をただ関口は聞いていた。腰を抜かして、立てた膝が僅かに開いた態勢の儘座りこけていた。
はぁはぁと走り過ぎた犬のような呼気を上げながら、緒崎は関口を見てにやりと嗤った。
関口の開いた膝の間からその股の付け根が見えていた。
其処は張り詰めて、関口のズボンの前を盛り上げていた。
「ぁっ…」
呼吸が上がる。
緒崎が雪絵の腰に叩きつける。二人の分泌物が、畳に滴った。
そして、緒崎は関口に向けて脣をべろりと一舐めした。
「笑えよ、莫迦―――」
関口は泣きような顔をしていたが、その股間は痛い程に張り詰めていた。
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関口のものを凡て奪ってやりたい尾崎と、緒崎と妻の凌辱にさえ股間を滾らせる関口。関口と緒崎のプレイ。否、緒崎と関口と雪絵のプレイか。
関口に堕ちた緒崎、かもしれない。
ちなみに『Amores Perros』とは犬のような愛です。
犬ってそれが親だろうが子だろうが交媾うんですよね。
以前88888でリクエストを頂いたぽにゅさま。
緒崎×関口が出来上がりました。映画アモーレスペロスのパロディです。
もし、宜しければ、お納めくださいませ。
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Amores Perros
犬を飼いたいのです。
妻のその言葉と冷りと神経に触った。彼女が何故犬を飼いたがっているか。知っている。子供を作ろうともしない夫の意思を責めているのだ、と関口は咄嗟に思ったのだった。
出来ないわけではないのかも知れない。ただ自分と同じものが生み出されていく、再生産されて行く恐怖と嫌悪に抗えない。
そう―――関口巽はもう数ヶ月も妻の軀に触れていなかったのだ。
彼女はそれを責めている。あれほど快活に笑う女であるのに、今の彼女はただ暗く、眼窩も深く落ち窪み、膚も瘡瘡に乾いているようにも見えた。
己の鄙俗らしさなぞ、此の貪欲に軀の底に広がる欲望にずっとずっと付き合ってきたのだ。飼いならすことなど出来ない。ただ宥めすかし続けてきた。彼女の柔らかな身に包まれさえすれば、堅くなりそして吐き出すことなど造作も無い。
ただ、ただ其処に行き着く、その前で、彼女の身を抱こうとするその寸前で気持ちが萎むのを知っている。
夫の溜息に、妻は怯えた。夫婦である以上、子供を望むことも性交を望むことも何も不自然ではない。
だけれど関口は妻に触れることさえ出来なかった。
申し訳ないとも思うのだ。
これまで、彼女の笑みに幾度救われているのか解らない。その献身と、彼女の愛情に如何程、生かされているのか。けれど彼女の夜着へ手を伸ばすそれさえ出来ないでいる。
「すまない」
そう小さく洩らした声に、嗚咽が重なった。いっそ不能と詰られることも覚悟していた。そしてそれを理由に離縁を申し入れられることも。生憎かつかつの生活に夫婦間に情交さえないのだからそれも致し方なからぬところであろうに、彼女は次ぐ日には相変わらず快活に笑い食事を用意し、関口の床を上げて家事に勤しんだ。
彼女の開けた窓の明るい陽の下で見る彼女は未だ若く、離縁しても再び嫁ぐことも可能だろうと、関口は思った。目を瞑れば、彼女がもっと甲斐性のある男と人生を共にする姿が想起された。こんな不安定な、不安定故に妻へ何も出来ぬ男ではなく。
「タツさん、」
呼ばれて目を開く。
「先刻起きたばかりでしょうに、寝ないで下さい」
朝食にしましょう、と笑い掛けられる。昨日隣家から貰ったと言う卵を甘く焼き、そして磯の香りのする濃緑の海苔と葱の味噌汁が卓子に並び、飯を盛られた茶碗を差し出された。少しして、薄黄色い番茶も渡される。緩慢と関口は朝食に手を出した。
これが日常だ。
恐らく、関口巽と言う男には掛け替えのない。もっとも、最上の日常なのだ。箸で口に物を放りこんでも味もしないのに。
何日も床を上げていないだろう饐えた臭いさえする敷布の上で身を捩る。じんじんと痛い。きっと腫れ上がっているだろう。ズボン吊りの金具を胸部に取り付けられた儘、関口は肩で息をしていた。
時折男が、金具を捻る。その度に声を上げてしまうのだが、余りにも煩瑣だと口の中へ先刻吐瀉物を拭った手拭いを裂いて口の中へ詰め込まれていた。
口の中の残る饐えた胃液と精液に上げそうになるのだが、その度に殴られる。
散々腹を殴られて、腹の中に詰め込まれていた殆ど消化し切った物体を吐き出したのは、数時間前の出来事だ。
「女房は健気じゃねえか。お前なんかに飯を喰わせてくれるんだ」
猿公が、と囁かれて腹を蹴られる。蹴られて、のた打ち廻る。
「別れねぇのが不思議だな。賢夫人て奴か」
こんなよがり捲る男に。
吐き出すことに焼かれた食道に蓖麻子油を流し込まれる。
「自分の糞を舐めさせられたく無かったら、綺麗にしろよ」
と碗に注がれた蓖麻子油に、俄かに下半身が熱くなる。これから先何が起こるのか関口は知っている。そして排泄を終えた後孔に同じくそれを塗りこまれることも。
塗りこまれるのは、関口の負担を和らげることが目的ではない。
がちがちの狭隘な肉の狭間、しかも男の孔に自身のそれを捻じ込むことが厭なのだと云った。緩いものはそれこそ論外だが、男の常には糞便を垂れ流す孔に噛まれるのは御免だと。
腸が厭な音を上げ始める。
そしてそれが関口だけでなく男の耳に届く程に成ると、男は口端を上げた。口の中に詰めた手拭いを取り出す。
蓖麻子油と唾液と吐瀉物に濡れてぬちゃりと音を上げて手拭いは褪せた畳の上に落ちた。
そして部屋の端に置かれた鏡台の鏡台に付属する踏み台程度の物入れに腰を下ろし覆いを掛けられた鏡に背を凭れた。
関口は緩慢に起き上がる。拡げられた腿の間に膝を尽き、男のズボンの前を施す。
僅かに反応したものを見出すと、関口は男の下着を脣と歯で押し下げて、咥えた。手も指も使い、舐める。陰嚢をも揉みしだき、鈴口を撫ぜながら陰茎の根本を舐めて吸う。
指の腹に先走りが滲んで指と裏筋に流れ、舌を伸ばしてそれを舐めると、雁先を咥え込む。丹念に。
「歯、立てんなよ…殴られたくなかったらな、」
口の中が腫れていて、物を食んでも味覚しなくなって一週間になる。痛くて堪らないのだ。
流石にこれ以上腫れて、況して味がしないとなれば誰かに気付かれることもある。関口は勤めて丹念に吸い付くように舐めて、殴られることを避けることにした。
怖い。
殴られるもの、蹴られるもの。
けれど、人は痛みに馴れ、やがてより酷い刺激でなくては感じなくなる。耐性が着くのだ。
関口は身を持って知っていた。あの伊豆の時から。否、それ以前から、だ。ずっとずっと知っていたのだ。知っていて、閉じていた。
下肢が熱くなる。男性の性器を舐めて堅くなる。既にそれを不自然にも感じなくなっていた。男の肉塊で頬の内側を、咽喉の奥を、突かれるのは気持ちが好い。舌の上を滑るのも、吸い上げるもの。
腸が鳴る。額に汗が滲む。肩先が俄かに寒い。寒いのに、肛門が熱い。酷く熱い。ぼってりとした熱を持って躰が粟立つ。
これが蓖麻子油の覿面なのだ。
「おい、」
口の中で堅く大きくなったもの。
その怒張に悦に入っていると、顎を掴まれ、無理矢理腰を使った。そして口内から取り出すと、関口の鼻先目掛けて、吐き出した。
「あ…」
「出して来いよ、漏らすなよ。臭ぇから」
関口は白濁とした視界と胸にズボン吊りの飾りをつけたまま、臀肉に力を要れて半起ちの儘内股にそっと歩き出す。
便所で水のようなものを出して、浴室の風呂桶に溜められた水で臀部を洗う。指を中に入れて。
其処に指を宛がうだけで、吐息が漏れる。散々と使われ腫れていたが、最近は油も使い以前のように其処が傷付くことは少なくなっていた。
新宿の仕舞家と言えば聞こえはいいが、ただの廃屋を根城にし始めたのは極々一ヶ月前の話だった。木賃宿でも金は取られ、それが惜しくなったらしく、空家の軒先を借りていたらしいのだがいつまで経っても誰も顔を出さないので、塒としたらしい。
そしてその一番の理由が内湯があったことだと言った。
彼一人の場合は大概一人で湯屋に行くようなので何故内湯がその決め手になったのか、関口には知れなかった。何故なのかも思考しない。考えることが厭だった。
ただ身に与えられる痛みを味わい酔っていた。
何処か歪な複製作品であるところの赤井書房所有自動車の助手席で背を丸めた人は、窓の外を流れ行く景色を見遣っていた。
機嫌伺いに作家の家を訪問すれば、目を赤く張らした細君の姿があった。
常に快活で、ともすれば辛気臭く為りがちな家内を上手く取り仕切っている。此処を主催し、治めているのがまるで彼女であると思わせることに長けている。…否、今日この時まではそれが真実であると思っていたのだ。
目の縁が紅く重く腫れている。笑みの形に口角を上げる仕草が酷くぎこちなかった。
鳥口守彦の眉間が僅かに寄った。
「鳥口さん、すみません。今、主人は留守にしていまして」
声が掠れていた。
「中禅寺さん宅ですか」
口から出た言葉の偽りの深さに唾棄したいほどだった。
「ええ。……否、さあ…どうでしょう、」
逡巡を表す彼女の返答に鳥口は俄かに戸惑った。兎も角後ろ手に扉を閉ざす。 何があったのかを聞く訳にも行かず、ただ彼女の前で鳥口は立ち尽くした。
「締切だったのですか、」
掠れた声の儘雪絵は訊いた。
「あ、否。締切ではなく、あの…先生のご機嫌伺いに、」
雪絵が少し笑った。
「最近、机に向かっている時間も少なくて。申し訳無いと思ったのですが」
「あの、まあ、弊社で次刊を出すのには、もう少し資金繰りを良くしないと」
そう云うと雪絵が本当に笑ったように見えた。
「ご主人がいないのに上がり込む訳には行きませんね。お暇しましょうか、」
雪絵は緩々と頸を振った。
「態々お越し頂いたのに無碍にはできません」
上がっていらっしゃって。
雪絵は鳥口を家に上げた。安い茶だと云うことはすぐに知れた。それでも熱い湯に潜らせればそれなりに旨い。鳥口は冷めて不味くなるまえにそれを胃腑へ流し込む。雪絵の心ばかりをそれこそ無礙にはできなかった。旨い茶だとはお世辞にも言えなかったが、それでも他愛無い空虚な会話を繰り広げた。
そして不意に会話が途切れて、雪絵の眸が酷く空虚にみえた。
「どれくらい、いないのですか?」
「さあ…」少し微笑む。「数えても、仕方が無いじゃありませんか」
先刻から雪絵は笑みの形を崩さない。それが彼女を衛る鎧であるかのように。
「それほどに、」
いないのか―――
「中禅寺さんのお家とか、例えば神保町の」
探偵の処とか、と云い募ろうとして鳥口は言葉を止める。
「そうですね、訊ねてみればいいのかもしれませんね」
虚脱したような物言いだった。
関口が不意に何日か彼の家家に連泊することはまま無いことでは無かった。けれどそうではない、と細君の雪絵は云うのだ。
関口に浮気をする甲斐性は無い、と云ったのは古書肆であったが、誰もがそれに否は無かった。関口巽に甲斐性が無いのは共通理念であったし、実際彼に情を掛けようと云う女性などそう多いとは思われなかったのが、鳥口の正直な感想だった。
けれども。
同じ口で言を翻すことも鳥口は厭わない。
彼はどうにも或る人々に誘い掛ける色香がある。
惹きつける、嗜虐と云う―――――魅力を。
否、彼に対峙して、愛するか、殴りつけるかはそれぞれの反応だ。
そして、後者の人々を途轍もない引力で彼は引きつける。誘われるのだ。彼をそうしたらどれだけ快いのか、それを知りたい。その扉を開けたい。その先を見たい。
彼とその世界を味わい尽くしてしまいたい。
「鳥口くん?」
声を掛けられて、頸を巡らせれば何処か面窶れをした関口巽がいた。
「ここれは、先生っ!お久しぶりですね」
横で雪絵が立ちあがった。
「お茶を淹れましょうか、」
関口は肯く様子もなく、座り込もうと云うその腕を鳥口は関口の臀部が畳に着く前に掴まえた。
「少し車を流しに行きませんか?」
「え、」
「行きましょう、」
関口がぎこちなく肯いた。
雪絵の眸が背に注がれていることを感じる。漸く顕れた夫を先まで慰めていた男が攫って行くのだ。
彼女は恨むだろうか―――――。
車は滑らかに走っている。今日は調子が好いようだ。鳥口は横で背を丸めている関口を横目にしながら何も言えないでいる。
彼が何処にいたのか。何をしていたのか。雪絵との間で何が起こっているのか。訊きたいことは山のようにあるののに、会話の穂先さえ見付けだせない。
車から流れる外界を望む関口の以前見たよりも細くなった頸部に薄らと綾目に似たものが見える。
「造り物粧いて見えないか」
「何がですか?」
「人も時間も建物も」
関口と云う人物は中禅寺や榎木津のように浮世離れした為人では無く、云うなれば浮世に塗れた人で、こんな話をするとは思わなかった。
そして今はただ憔悴して見えた。
「雪絵さんも僕も造り物じゃありませんよ」
「そうだね…」
薄く笑って関口は座席に深く沈み込んだ。
「そんなことを云う心算は無いんだ。ただ、何もかもが造り物だったら、と思ったことがないかい?」
「その状況を想像して怖いと思ったことはありますけど、望んだことはありません」
「だろうね、僕もだよ」
その儘口を噤んで話さなくなった。車を走らせる間にやがて寝息が聞こえて、矢張り酷く疲れているのだと思ったその感触が決して間違えではなかったことを知った。彼の妻の許ではなくて適当な気兼ねも無い処に連れて行きたくなったのだ。規則正しい寝息を聞きながら車を走らせる。
関口が中禅寺にも榎木津にも何も云わずに、何かを抱えているのだけは解かっている。そしてそれに自分が関われないことも。いずれ襤褸襤褸になった関口と会う予感だけがあった。
犬を預かることになったと聞いたのはそれから一か月程後のことだった。
獣の臭気がする。新宿の深く掘った地下鉄道の主要幹線から少し外れた処に三十平米許りの広さを有した部屋がある。元々戦時中に軍部により掘られたそこは主都東京の地下世界に似つかわしく、混凝土と小さなタイルで装われていた。
犬の臭気が立ち込めていた。
吠える大小の声は、咽喉を鳴らし唸り上げ、やがて細ぼそる。
人間の囃し立て怒鳴る声、歓声をまた怒号が飛ぶ。
酷い臭いがする。
肉を喰った動物の息切れ。小さな犬の躯から湯気のように立ち上る汗。そして血の腥い臭気。腑分け時に内腑を開けたような臭いには前職の頃に馴染みがあるのだ。鼻を突く異臭。臓腑の臭いだ。
酷く生臭かった。
物影には大小の犬の弱った体躯があった。
中にはぴくりとも動かないものすらも存在した。
「どうだ?」
黄色い皮膚をした男が白眼の薄く充血した眼を向けた。
「負けた、」正直に云うと、黄色い歯を見せて笑う。
「またかよ。どうせなら犬連れてこいよ。犬。登録はコッチでやってやるからよう」
「犬を飼うだけの余裕がねえよ」
「そんなもん簡単だろう?盗んでくればいいんだ」
「盗む?」
「諾諾。簡単だろう?盗めばいいんだよ。デカくて人を殺しそうな眼をした闘争心の高そうな犬を。勝ち上がれば、其儘飼えばいいし。負ければ道に転がして置けばいいんだ」
「そんなもんかよ」
「そんなもんだろ、犬っころなんざ」
また黄色い歯を見せて笑う。長らく日の許に出ていないことを自ずと知らせていた。
負けは死を意味する。
此処は地下世界の賭博場だった。賭博の品は犬。闘犬だ。地上世界では死ぬところまではさせることはないが、地下では命の決着が付くまで行われる。
無惨に噛み殺されるのを、誰もが声を上げながら注視している。昂揚と、躰を熱くして歓声を上げている。勝利の狂喜に高められて、犬の生き死にに多額の金を掛ける。
よって、皆の掛け声は
「殺せ、殺せっ!」
人々は口吻泡を飛ばすのだ。
緒崎は自分の変化を思い知っていた。
あれほど、関口の事が許せなかった日々がまるで白い煙幕の向こうにあるように感じる。白濁とした膜の向こうに。
人殺しと罵ったあの日々はそう遠いことではないのに。
人の死も、人殺しも許せなかった。
そして関口も。
ただ許せ無かったのだ。
だのに警察を辞めて、此の東京に関口を求めた頃からは、まるで坂を転がるようだった。
犬の死を憐れんだのは、いつのことだっただろう。
転がり堕ちる。
多額の金と引き替えに犬の死を歓ぶ自分を知った。相手の犬がなかなか死なないことに舌打ちをする。苛立つ。
赤毛を掻き分けた鋭利な歯が皮膚を突き抜け血を流しす。そして犬は断末のような狂気染みた鳴き声を望むようになった。
負けた日の夜には関口が欲しかった。関口の歯を折っていつでも咥えさせたかった。たぶん、関口は肯く筈だ。従順だった。あの檻の中の儘に、関口は従う。呼び出せば嫌はなく現れる。そてあの檻の続きを受け入れる。
従順だった。
関口が緒崎に求めたことは、たった一つだった。
目を隠して欲しい、と。
「帰るのか?」
此の闘犬の胴本である男が緒崎に声を掛けた。そしてまたも脂に黄色く染まった歯を見せて「犬用意しろよ、勝たせてやるぜ」と耳打ちした。
獣の、犬の臭気が立ち籠めている。
それは噎せ返るよう人の欲と云う死臭だった。
目隠しをして、背を撓らせている。往復運動に躰が揺れて咽喉が灼ける。吐精感が極まり、ぐっと大きくなり後ろを締め付け、其処に彼の存在を感じる。目隠しの内側で瞑目に精感を高みまで駆け上る。躰が震えて達した。
髪を掴みあげられ、項の辺りに鼻先が押し付けられるのを感じる。
「犬の臭いがする」
低い声が耳朶に触れる。
「い…ぬ、」
応える声が掠れて熱を帯びていた。
「飼ったのか?」
声が僅かに苛立って聞こえた。
「いいえ、」
口を散々使った下顎の筋肉が僅かに弛緩しているのを感じる。舌が悖るのだ。
犬を飼いたいと妻が云ったのは何カ月前の話だっただろうか。
その時に無碍に突き放したのは彼女が本当に何を求めているのか知っていたからだ。
けれども、先日彼女は云い難そうに隣家から犬を預かって欲しいと頼まれたと口にした。隣家の主は暫し故郷に帰ると云う話だった。長い距離の列車移動に犬は連れて行けず、況して何処かに離すのも然るべき場所で処分をされるのも忍びないと聞かされれば、それを諾と云う程のなにも関口には無かった。
諾の返事を受けて翌日にも雪絵が連れてきたのは、中型犬の、既に成犬であった
耳の三角に立った赤毛の犬だ。目付きが勇敢で眸が澄んで見える。豊かに上向きに巻いた尻尾姿は精悍だった。短い期間ではあるけれど念願の犬を飼えたことにとても嬉しそうに見えた。
彼の住処は家の上げることも出来ないので、犬小屋ごと借りてきて、敷地内の腰辺りまでの壁際に設置された。
人に慣れているのか、余り鳴くこともなく人が近付く以外は眠っているか大人しく一頭で遊んでいるようだった。
「大人しい犬だね、」
朝食の中で雪絵に云うと小さな円卓に茶を運びながら元々狩猟犬なのですって、と答えた。
「狩猟犬?」
「ええ。人に従順で闘争心の高い犬なんだそうですよ。猟師と一緒に山の中に入って獲物を追うんだそうですから」
激しく鳴くような犬では獲物にすら近付けないだろう。
「マタギが連れているような犬なんだね」
「お隣さんの奥さんはお祖父さまがマタギだったと云ってましたよ。だからきっとその血筋なんでしょう」
雪絵は嬉しそうに語った。
日中働きに行く日もあるので手の掛る子犬でなくて良かったと云ったのは本心だろう。関口が積極的に犬小屋に近付くこともないので、犬の面倒は雪絵が見ていることになる。実際、関口自身、家の敷地内に犬がいることを忘れていることすらあるのだ。
犬の臭いがする、と云われて関口は不意に自分の体臭を嗅ごうと鼻を腕の辺りに寄せた。自分で自分の纏う臭いは解からないものだ。
貸せよ、と云う言葉を緒崎は飲み込んだ。ただ関口の物は自分のものだと思った。
関口が外出から戻ると、玄関の三和土に血に染まった犬の躰が横たえられていた。思わず後ろを振り返る。何の筋だ、と思っていた。道路から此処まで続く黒い筋。引きずった痕跡。
それが、大きな体躯をした犬を引き摺った、そしてその身から落ちた血によるものだと、関口は漸く理解した。
思わず躰が震える。
屈みこんで、犬の鼻先へ手を翳す。
白い毛には未だぬるぬるとした血が付着している。
だけれど、手に掛かる呼吸は酷く弱くて―――
「ゆ…ゆき…え」
未だ、働きに出ている時間だろうか?
兎も角、関口は犬の躰を跨いで、家内へ上がった。
どうしたらよいのだろう。あの犬は隣家からの預かりものでもあるのだ。生憎、家畜医には心当たりがない。強いて言うならば、医師の里村だろうか。此処へ来てもらうのが良いかもしれない。
不意に、家内の、その閉じられた襖の向こうに気配があることに気が付いた。
嫌な予感がした―――
元来、然程勘の良い方ではない。
だけれど。
関口は知らず、咽喉を嚥下する音が酷く大きな音を立てたような気がした。
襖に触れる。その唐紙に紅い指紋が付着した。
両手を襖の縁に掛けると、その向こうから、声が…否呼吸が聞こえていた。否、嬌声だ。喘ぐ、声だった。
棒立ちに関口は静かに襖を開いた。
「やあ、あ、やああ……やぁ…やめっ…てぇ」
泣き声だった。
妻の―――
畳みに腹ばいになった妻の躰からは、衣服が剥ぎ取られていた。引き千切られて、切り刻まれていた。そしてその妻に圧し掛かっているのは
襖が開いたことに、妻は気付いたようだった。跫を其処に見た。そして草臥れたズボンとシャツを目線が辿り。
悲鳴。
関口は襖を更に開けた。
そしてその儘尻もちを着いた。
「やめてぇっやめでぇっっっだづざん見ないでぇぇぇぇぇ」
白い乳房がむき出しだった。スカートが腰で蟠っている。叫びすぎて嗄れた声を更に無理矢理上げた。鼻の両の孔からも液体が流れていた。
その間も、妻の背後の男は律動を刻む。見覚えのある、否、其処に居るのは、
緒崎だった―――
関口を見ると、額に汗を浮かべた雄崎が脣を引き攣らせた。笑ったのかもしれない。
右手を妻の髪に掛けると、顔を上げさせた。
泣いて叫んで、顔を涎と涙に塗れさせた妻雪絵が其処に居た。
関口は両手を背後に着いて、腰を抜かすように、身動きすら取れなかった。
「みないでぇみないでぇ……あなだぁ」
その声をただ関口は聞いていた。腰を抜かして、立てた膝が僅かに開いた態勢の儘座りこけていた。
はぁはぁと走り過ぎた犬のような呼気を上げながら、緒崎は関口を見てにやりと嗤った。
関口の開いた膝の間からその股の付け根が見えていた。
其処は張り詰めて、関口のズボンの前を盛り上げていた。
「ぁっ…」
呼吸が上がる。
緒崎が雪絵の腰に叩きつける。二人の分泌物が、畳に滴った。
そして、緒崎は関口に向けて脣をべろりと一舐めした。
「笑えよ、莫迦―――」
関口は泣きような顔をしていたが、その股間は痛い程に張り詰めていた。
了
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関口のものを凡て奪ってやりたい尾崎と、緒崎と妻の凌辱にさえ股間を滾らせる関口。関口と緒崎のプレイ。否、緒崎と関口と雪絵のプレイか。
関口に堕ちた緒崎、かもしれない。
ちなみに『Amores Perros』とは犬のような愛です。
犬ってそれが親だろうが子だろうが交媾うんですよね。
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